home>日向の国の武将
日向の國武将一覧

・ま・・ら・わ

<あ行>

秋月種実
あきづき・たねざね

筑前古処山城で討死した秋月文種の次男。高橋元種の兄。豊臣秀吉の九州仕置きによって、筑前秋月城より財部(高鍋町)・櫛間(串間市)に移封

有馬直純
ありま・なおずみ

高橋元種の改易後、肥前日野江から延岡に入封した。のちに有馬清純が山陰(やまげ)百姓逃散事件の責を問われ越後糸魚川に転封されるまで延岡は有馬氏によって支配された

伊集院忠真
いじゅういん・ただざね

伊集院忠棟の子。島津義弘の女婿。伏見で忠棟が殺されたとき、一族郎党と共に庄内の乱(庄内合戦)を起こす。徳川家康が斡旋した調停を受け入れ頴娃二万石に転封されるが、後に野尻で暗殺された

伊集院忠棟
いじゅういん・ただむね

別名幸侃(こうかん)。島津氏の重臣。島津氏が豊臣秀吉に降伏した際、人質の一人となる。秀吉に認められ都城八万石を与えられる。主家の乗っ取りを謀ったとして、伏見の屋敷で島津忠恒に斬殺される

伊東祐国
いとう・すけくに

祐尭の子。1485年島津武久が飫肥城の伊作久逸を攻めたためその救援に向かうが、戦いの中で討死

伊東祐重
いとう・すけしげ

祐持の子。日向の実効支配かなわず上洛した祐持にかわって下向し都於郡に入るが木脇祐広・祐氏父子の抵抗で都於郡城には入れず付近の石野田城に入る

伊東祐尭
いとう・すけたか

伊東氏中興の立役者。一族の争いを制して家督を継承すると、伊東氏が日向に君臨する地固めをした

伊東祐時
いとう・すけとき

工藤祐経の子。祐経より日向地頭職を継承し、その経営のために一族(田島氏の祖祐明・門川氏の祖祐景など)を派遣した

伊東祐持
いとう・すけもち

足利尊氏に従って功を上げ都於郡三百町を得て1335(建武2)年頃日向に下向し都於郡城を築く。が、庶家の抵抗にあい実効支配ならず1348(貞和4)年上洛し病没。都於郡城も木脇氏に横領されてしまう

伊東義祐
いとう・よしすけ

1512〜1585。はじめ祐清、足利義晴より一字を貰い受け義祐。のち、出家し三位入道と称す。一族の内訌の結果実権を得、版図を伊東氏最大(伊東氏四十八城)とする。が、1572年の木崎原の戦いで島津義弘軍に大敗を喫し以降徐々に衰えていく。1577年ついに豊後の大友宗麟を頼って出奔。大友軍が耳川の戦いで敗れたのち伊予・周防を流れ歩き、1585年堺にて死去

稲津重政
いなづ・しげまさ

伊東氏の重臣。掃部助。祐信ともいう。関ヶ原の戦いの時、黒田如水の指示で当初西軍だった高橋元種の宮崎城を攻め落とす。元種の東軍寝返りの結果、宮崎城は返還され、その責任を負う形で切腹を命ぜられるが、わずかな手勢と共に清武城に立てこもり、主家の兵に攻められて死亡(→関ヶ原外伝

上井覚兼
うわい・かくけん

島津氏の武将。伊東義祐の出奔後、宮崎地頭として宮崎城に入城。その頃著した「上井覚兼日記」は当時の様子を知る資料として名高い

大友宗麟
おおとも・そうりん

豊後の戦国大名。宗麟を頼って落ちてきた伊東義祐を日向に復帰させるという名目で、日向に侵攻。土持氏を攻め滅ぼす一方、牟志賀(延岡市無鹿)にキリスト教の理想郷を建設しようと試みる。が、耳川の戦いで大友勢が大敗すると、虚しく豊後に引き上げた

to page top

<か行>

肝付兼重
きもつき・かねしげ

南北朝期に三股院に勢力を張っていた南朝方の武将。島津氏や畠山直顕との間で戦いを繰り広げた

工藤祐経
くどう・すけつね

源頼朝の重臣。1190(建久元)年に日向地頭職となる。自身は日向に下向することはなかった。曽我兄弟の仇討でも有名

黒田如水
くろだ・じょすい

言わずと知れた「くわんぴょうえ」こと秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛。秀吉の九州仕置のとき、曽井城(宮崎市)の修復を監修。また、関ヶ原の戦いのときも、伊東氏に働きかけて高橋氏や島津氏と争わせるなど、意外に縁がある(→関ヶ原外伝

権藤種盛
ごんどう・たねもり

高橋元種の武将。宮崎城主。関ヶ原の戦いの時、伊東方の武将、稲津重政に攻められ討死。城も落城した。城下にある直純寺は、種盛の孫門解(もんげ)が当時の藩主有馬直純の援助を受け建立したもので、種盛の仮の墓がある(→関ヶ原外伝

to page top

<さ行>

芝原性虎
しばはら・しょうこ

またの名を又三郎入道ともいう。三田井氏の一族で南北朝期に南朝方の武将として活躍した。九州山地山の民の元締か?

島津家久
しまづ・いえひさ

島津貴久の子。義久・義弘・歳久の弟。耳川の戦い、沖田畷の戦い、岩屋城攻略、戸次川の戦いなど、島津氏の九州北上作戦のほとんどに参加し戦功をあげる。秀吉の九州仕置により佐土原に入封
#義弘の子で義久の女婿となった忠恒も後に家久と称したが、別人です

島津豊久
しまづ・とよひさ

家久の子。佐土原領主の時、義弘につき従い関ヶ原の戦いに参加。いわゆる「関ヶ原の退き口」の際、殿軍として討死

島津久豊
しまづ・ひさとよ

元久の弟。穆佐城主として日向川南(大淀川以南)地方の経営につとめるが、伊東祐安・祐立父子に攻め立てられ末吉に逃れる

島津元久
しまづ・もとひさ

1404(応永11)年、日向守護となる。この頃から日向の中原ともいうべき宮崎平野をめぐって伊東氏との長年に渡る争いが始まる

島津義弘
しまづ・よしひろ

島津貴久の子。義久の弟。飯野城主の時、木崎原の戦いで伊東方を討ち負かし、その後も九州各地を転戦。文禄・慶長の役でも鬼と恐れられた。関ヶ原の戦いでは終盤まで守備戦に徹し、「関ヶ原の退き口」として知られる正面突破で戦場を離脱。帰国後も硬軟両面の構えで、島津氏は西軍大名として唯一本領安堵を勝ち取る

to page top

<た行>

高橋元種
たかはし・もとたね

高鍋藩初代秋月種長の弟。豊前香春岳の高橋鑑種の養子。秀吉の九州仕置により県に入封。関ヶ原の戦いでは西軍として参加するが途中で内応。本領を安堵される。県城(延岡城)を築城し移り住むが、罪人をかくまったとして改易、一族の奥州棚倉藩(立花宗茂)に預けられる

土持信綱
つちもち・のぶつな

鎌倉時代初期に県(現在の延岡地方)を中心に勢力を張っていた武将。土持氏は宇佐八幡宮の社家の縁戚である田部氏の一族だった

to page top

<な行>

那須大八郎
なす・だいはちろう

源義経の家臣で弓の名手那須与市の弟。平氏の落人を追って椎葉に入るが、そこで鶴富姫と結ばれる。後に大八郎は鎌倉に呼び戻され二人は泣く泣く別れる…という悲恋物語の当事者。民謡『ひえつき節』に謡われている。この伝説のためか、椎葉には那須姓が多い

to page top

<は行>

畠山直顕
はたけやま・ただあき

足利氏一門で、尊氏の重臣。南北朝期に日向の国大将、さらには守護職にも任ぜられる。将軍御台所領の穆佐院を中心に南九州の北朝勢力の拡大につとめるが、後に足利直冬に味方するなど複雑な動きを見せる

to page top

<や行>

山田有信
やまだ・ありのぶ

島津氏の武将。耳川の戦いや、豊臣軍による九州侵攻の際、高城(木城町)の守将として城を守り切る活躍をした

to page top

(c)1997-2008 日向の國中世の館 all rights reserved