所在地 東臼杵郡門川町門川尾末城山、城屋敷
築城者 門川氏(伊東氏の氏族)?
概要 別名狗山城。伊東氏48城のひとつ。また、日知屋城、塩見城とともに「三城」と呼ばれた。
鎌倉期に工藤左衛門尉祐経の子、伊東祐時が七男の祐景(すけかげ)を下向させ、県(あがた・現在の延岡市)と富田(門川町と日向市の大部分)を治めさせた。祐景は門川殿と呼ばれ、その一族(佐々宇津氏、小松氏など13氏に分派)を門川党と呼び、日向北部から中部にかけて土着した。その後一度は土持氏に圧迫されてこの地を追われるが、伊東祐尭が1457(長禄元)年の小浪川の戦いで財部土持氏を滅ぼすと、門川城も伊東氏のものとなった。現在残っている遺構はこのころ築かれたものらしい。昔は周りが湿田の要害であった。その後は伊東・土持両氏の最前線にあり、しばしば争奪の的となった。
天正年間には伊東氏の臣・米良四郎右衛門尉が城主。彼は義祐出奔後も塩見城主の右松四郎左衛門とともに人質を出して島津方に表面上臣従しながらも、情勢を大友宗麟にもたらして日向侵攻を促すが、耳川の戦いで討死。その後薩摩の将・伊地知丹後守が城主となったが、豊臣秀吉の九州仕置後延岡藩領となる。一国一城令で廃城。 |