所在地 宮崎郡清武町加納城内
概要 伊東氏支族の清武氏が築いたといわれる。1485(文明17)年、飫肥攻めの後詰として伊東祐尭が入る(のち同城で死去)。のちに伊東氏48城のひとつとなり、城主として長倉伴九郎、上別府宮内少輔などの名がある。島津時代は伊集院久宣が入る。豊臣秀吉の九州仕置で伊東氏領に復帰。関ヶ原の戦いの際、清武城主・稲津掃部助は西軍だった高橋元種の宮崎城を攻めとるなどするが、元種は東軍帰順後伊東氏と和睦。その責を問われた掃部助はこの城で誅殺された。
本丸・二の丸・台丸などで主郭を構成し、周辺の丘陵上に郭、城館、寺院を置くなど都於郡城に似た構造となっている。 |