跡江城
あとえじょう |
所在地 宮崎市跡江石ノ迫
概要 1336(建武3)年、浮田庄の預所・瓜生野八郎右衛門尉(南朝方)がこの城に拠って挙兵したが、土持宣栄(のぶよし)、伊東祐持らに攻め取られた。 |
石塚城
いしづかじょう |
所在地 宮崎市浮田城ノ下、佃前、照明院
概要 別称、上城。応永年間(1394〜1428)に石塚殿と呼ばれていた伊東祐武が築城し居城とした。後に都於郡伊東氏の意向で、車坂城と交換。のちに伊東氏48城のひとつとなり、城主は平賀刑部少輔。現在、城跡に生目小学校がある。 |
今城
いまじょう |
所在地 宮崎市瓜生野久保
概要 城山(じょんやま)といわれているところ。 |
今江城(仮称)
いまえじょう |
所在地 宮崎市熊野今江
概要 宮崎学園都市の工事中に発見された。発掘調査後消滅。 |
内海峠城 うちうみとうげじょう |
所在地 宮崎市内海狩行司、岩下、藤河内
概要 内海に向かう旧道の峠の西にある。1423(応永30)年、伊東祐立が車坂城の支城として築造したもの。 |
柿迫 かきさこ |
所在地 宮崎市糸原柿迫
概要 現在は消滅。 |
囲城 かこいのじょう |
所在地 宮崎市細江風呂屋 |
北ヶ迫 きたがさこ |
所在地 宮崎市新名爪北ヶ迫 |
倉岡城 くらおかじょう |
所在地 宮崎市糸原戸森
築城者 島津久豊
概要 別称池尻城。応永年間(1394〜1428)に島津久豊が穆佐城の支城として築造。久豊の死後、伊東氏のものとなる。のち伊東氏48城のひとつとなり、野村隠岐守が城主であった。伊東義祐の出奔後、島津氏のものとなる。一国一城令で廃城となるが、薩摩藩の外城体制下で重要拠点と位置付けられた。城は大森城、大城(おおしろ)、旗懸松城の三曲輪で構成され、西と南に大淀川が流れる要害となっている。
駐車場 あり(無料)
雑感 本庄川と大淀川の合流地点に近く、都於郡方面に対する橋頭堡とも言え戦略的にも重要な地点にある。城跡は崩落も目立ち、完全な薮と化しているところもあるが、一部の郭が大森公園として整備されゲートボール場なども設置されている(T_T)。大淀川が城の手前で大きくう回しており、川の交通を押さえる場所でもあったことがうかがえる。 |
車坂城 くるまざかじょう |
所在地 宮崎市熊野車坂、古城
概要 別称、加江田城、海江田城。天授年間(1375〜81)県(あがた)土持氏の支族・熊野氏によって築造された。応永年間のはじめごろ伊東祐立が攻め取って以来、島津氏との間で何度か争奪戦が繰り広げられた。伊東氏によって永禄年間(1558〜70)ごろ、廃城となったらしい。 |
白糸城 しらいとじょう |
所在地 宮崎市有田宮ノ下
概要 応永年間(1394〜1428)に島津久豊が穆佐城の支城として築造したもの。 |
紫波洲崎城 しわすざきじょう |
所在地 宮崎市折生迫上白浜
概要 応永年間(1394〜1428)、長井氏によって築かれた。1444(文安元)年、伊東氏に脅し取られる。1480(文明12)年、島津氏に攻め取られるものの、再び伊東氏が奪い返す。のちに伊東氏48城のひとつとなり川崎上総守が城主。伊東義祐出奔後は島津氏が領有し、宮崎城主・上井覚兼の父薫兼が城主となる。豊臣秀吉の九州仕置後、飫肥に配された伊東氏の所領となる。一国一城令で廃城。
築城者 長井氏
駐車場 あり(無料)
雑感 本丸跡には仏舎利塔が建てられている。眺望は抜群で、特に見張り塔があったと思われる北端の郭跡(地元民放局のアンテナが立っている)から、日向灘の絶景を見渡すことができる。 |
陣ノ内 じんのうち |
所在地 宮崎市下北方町陣ノ内、陣ノ下
概要 宮崎城に近く、その関連施設ではないかと推定されている。郭らしきものは残るが、遺構は不明瞭。 |
曽井城 そいじょう |
所在地 宮崎市恒久曽井
概要 天授年間(1375〜81)伊東氏の支族、門川党の曽井六郎三郎祐善が築造したと伝えられる。曽井氏は島津と結びたびたび本宗家に謀反をおこしていたが、1444(文安元)年、伊東祐尭によって攻め滅ぼされた。のち伊東氏48城のひとつとなり、城主は八代民部左衛門。伊東義祐の出奔後は島津氏が領有し、比志島式部大輔義知が入る。豊臣秀吉の九州仕置後、再び伊東氏のものとなった。また、このとき黒田孝高(官兵衛如水)を奉行として大規模な改築が行われたという。一国一城令により廃城。
雑感 現在、城跡には私立の病院が建っている。病棟やら、寮やら、駐車場やらで往時を偲ぶこともできないし、見てまわることさえもできにくい。鎌倉地方にみられる「やぐら」という遺構、落とし穴と推定される竪穴列だとか、けっこう特徴あるものが多いらしいだけに残念。如水が改築を手掛けたという点だけでも、価値があるような気もするが……(-_-;) |
高蝉城 たかせびじょう |
所在地 宮崎市浮田高蝉
概要 別称、古城。1401(応永8)年、島津氏による石塚城(伊東祐武)攻めのさいに島津氏によって築かれたもの。
雑感 以前訪城したとき、近くにあった八百屋のご主人に訊くと、城跡であるとは知らなかったが、門口(かどぐち)という名前の地区なのでそうではないかと思っていたとのこと。本丸跡は一面畑で、まわりはすべて樹木に覆われており、景色を眺めることはできない。東南隅に井戸の跡のような竪穴があった。街道から近い位置にある小丘なので、応永以降も城または砦として利用されたことがあったのかもしれない。登山道の途中に横穴があるが、前出の八百屋さんの話では、西南戦争の時の遺構だと言い伝えられているとのことだった。 |
竹篠城 たけしのじょう |
所在地 宮崎市瓜生野竹篠
概要 隠れ城とも呼ばれている。天文年間(1532〜55)に、日高氏により築城されたらしい。 |
丹後城 たんごじょう |
所在地 宮崎市芳土野間ノ平
概要 永徳年間(1532〜55)、土持氏の臣・三須丹後守によって築造された宮崎土持氏の城。 |
寺ノ下 てらのした |
所在地 宮崎市長嶺寺ノ下
概要 現在の長嶺神社あたりにあった城の遺構か? |
古城(1) ふるしろ |
所在地 宮崎市古城町古城
概要 天文年間、伊東氏が築城したもの。下記山城(やまのしろ)の東方約1kmに位置する。北側にある丘に伊満福寺がある。 |
古城(2) ふるしろ |
所在地 宮崎市浮田古城
概要 内の丸という地名が残る。浮田荘を支配していた者関係の城館跡か? |
蓬来山城
ほうらいさんじょう |
所在地 宮崎市大塚町城ノ下
概要 永徳年間(1381〜84)に、県(あがた/延岡市)領主・土持宣弘(のぶひろ)が、末子の染を城主として配し、三須石見守時信を後見とした。これが土持七頭のひとつ宮崎土持氏のはじまり。
雑感 全山鬱蒼として山頂には石碑や仏像があるなど、すこし無気味。一応階段があって、公園として整備しようとしたらしいけど、立ち入る人はあまりいないと思う。登る途中で蝉の大群に襲われた(正確には、近くの木々から蝉が一斉に飛び立って大きく鳴きながら逃げまどうので、こちらまで逃げまどってしまいそうになった)。『日本城郭大系』には麓に古刹・伊満福寺があったという記述がある。古城町の伊満福寺は移転したのか。 |
宮崎城 みやざきじょう |
所在地 宮崎市池内町
築城者 図師氏
概要 別称・池内城、龍峯城。1335(建武2)年、図師随円、慈円の父子が南朝方に応じてこの城に拠ったのがはじまりとされる。その後伊東氏支族の伊東県氏が領有した。1446(文安4)年に伊東祐尭が攻めとり、家臣の落合彦左衛門を置いた。のちに伊東氏48城のひとつとなり、長嶺紀伊守、肥田木越前守が城主であった。
島津支配時は、島津豊後守忠朝、続いて上井伊勢守覚兼(うわい・いせのかみ・かくけん)などが城主として在城した。覚兼在城時に著された「伊勢守日記」では当時の様子を垣間見ることができる。
その後豊臣秀吉の九州仕置で高橋元種が領し、城主として権藤平佐衛門種盛を配した。関ヶ原の戦いのとき、東軍についた伊東氏の家老で清武城主の稲津掃部助が西軍方の高橋元種の出城としてこの城を攻撃し権藤種盛は討死。城も落ちた。元種は関ヶ原の戦い翌日の美濃大垣城攻めの際、東軍に寝返って本領安堵されたため、宮崎城も元種に返還された。一国一城令で廃城となる。宮崎市瓜生野にある直純寺(じきじゅんじ)は、種盛の孫で僧となった門解(もんげ)が、当時の延岡藩主・有馬直純の援助で建てた浄土真宗本願寺派の寺院。1710(宝永7)年に建てられた種盛の僑墳(仮の墓)がある。
駐車場 なし
雑感 中世初期からつづく日向の国でも有数の城だが、江戸初期に廃城となったため顧みる人は少なかった。2000年に再演された舞台「宮崎城物語」や、医師で郷土史家の田代学さんの著作「甦れ宮崎城」などにより徐々に認知されてきているのかも。 |
宮ノ城 みやのじょう |
所在地 宮崎市細江宮田
概要 別称、細江城。永享年間(1429〜41)に築造された宮崎土持氏の城。1446(文安3)年、伊東祐尭が攻めとった。伊東義祐の出奔後は島津氏の所有となる。1587(天正15)年以降は、豊臣秀吉の九州仕置により県(あがた)領主となった高橋元種領。 |
本城 もとじょう |
所在地 宮崎市古城町時雨
概要 天文年間(1532〜55)に、伊東氏が築造したものという。1698(元禄11)年、飫肥藩の川崎祐盛が藩主に建白した書に「天下大乱の時は、清武城を本拠とし、この城を支城として戦うべきである」と記されているという。 |
山城 やまのしろ |
所在地 宮崎市北川内町山城
概要 門川氏の祖・伊東祐景の子孫、山ノ城氏の居城だったという。 |
内城
うちじょう |
所在地 宮崎市佐土原町東上那珂内城、長谷水 |
内田城(仮称)
うちだじょう |
所在地 宮崎市佐土原町東上那珂内田
概要 諏訪城(那珂城)の出城または曲輪のひとつで、中ノ城と同一のものか渡推定されている。 |
佐土原城
さどわらじょう |
所在地 宮崎市佐土原町田島追手
築城者 伊東氏
概要 別名、鶴松城、田島之城。1427(応永34)年頃、伊東祐立が支族の田島氏を滅ぼし、子の祐賀(祐尭の弟・のちに佐土原殿とよばれた)を入れた。伊東氏48城の要の城のひとつで、義祐の隠居城となった。義祐の豊後出奔後は島津家久が入り、豊臣秀吉の九州仕置でも安堵された。家久の死後、跡を継いだ豊久はいわゆる「関ヶ原の退き口(1600年)」で討死したため、一時徳川氏領となる。1603(慶長8)年、島津氏の働きかけにより垂水領主だった島津以久が入封した。
1625(寛永2)年、財政難を理由に山上にあった政庁が山麓(現在鶴松館がある場所)に移された。1869(明治2)年、藩主・島津忠寛によって政庁が同町広瀬に移され、廃城となった。
城の中心部は「本丸」「南ノ城」「松尾丸」の3曲輪で構成され、本丸跡には三階櫓(天守?)があったといわれており、その基礎となった石積みの一部が残っている。付近からは金箔瓦も発見されている。近世初期に半ば廃城(政庁の詰めの城?)となったため、土塁や堀切などの遺構は比較的残っている。
駐車場 鶴松館前にある。無料。 |
新城 しんじょう |
所在地 宮崎市佐土原町下田島新城町 |
諏訪城(那珂城) すわじょう(なかじょう) |
所在地 宮崎市佐土原町下那珂鳥越
概要 伊東氏48城のひとつ。城主は郡司弥六左衛門尉、湯地出雲守、宇都宮左馬助など。 |
中ノ城 なかのじょう |
所在地 宮崎市佐土原町内
概要 不明。内田城のことではないかと推定されている。 |
南岳原城 なんがくばるじょう |
所在地 宮崎市佐土原町東上那珂南岳(学)原 |
端ノ城 はしのじょう |
所在地 宮崎市佐土原町大字下那珂あたり
概要 諏訪城(那珂城)の出城か曲輪のひとつと推定されている。 |
平城 ひらじょう |
所在地 宮崎市佐土原町下田島田島
概要 伊東氏の士族、田島氏関連の居館跡と推定されている。 |
広瀬城 ひろせじょう |
所在地 宮崎市佐土原町下田島袋迫
概要 1869(明治2)年に築城が開始された佐土原藩最後の政庁跡。1871年の廃藩置県により、未完成のまま廃城となった。※中世城ではありませんが、一応掲載しておきます。 |
福城寺 ふくじょうじ |
所在地 宮崎市佐土原町上東上那珂福城寺 |
古城 ふるじょう |
所在地 宮崎市佐土原町下田島、古城 |
嶺ヶ城 みねがじょう |
所在地 宮崎市佐土原町下那珂西ノ城
概要 西ノ城、金丸城ともいう。金丸勘四郎が居城していたという。 |
飯田城
いいだじょう |
所在地 宮崎市高岡町飯田天神ヶ迫
概要 国富町との境にある。1387(嘉慶元)年、伊東肥後守祐武が築城したもの。1432(永享4)年、河骨の戦い(高岡町飯田)で島津軍に勝利した伊東氏がこの城を手に入れ、落合七郎左衛門を配した。のち伊東氏48城のひとつとなり、永禄年間の城主は川崎治部大輔。川崎氏は伊東氏没落後もしばらくの間、島津氏に抵抗したという。 |
池ノ尾城
いけのおじょう |
所在地 宮崎市高岡町内山池ノ尾
概要 伊東一族の伊東佐兵衛佐の居城。他に柚木崎丹後守、落合四郎左衛門、柚木崎吉介なども在城した。 |
今城
いまじょう |
所在地 宮崎市高岡町浦ノ名法ヶ代、山下、大堀
概要 別名、石ノ城。福永丹波守の居城。 |
尾谷城 おたにじょう |
所在地 宮崎市高岡町内山高手原
概要 別名水なしの城。伊東氏の臣・野村(伊東)新介の居城。 |
囲城 かこいじょう |
所在地 宮崎市高岡町内山栫、尾払、城
概要 栫城とも書く。伊東新左衛門の居城。福永丹波守の米蔵がおかれ、川崎某という部将が在城していたこともある。伊東義祐の出奔後、島津の将・野村備中守、鎌田出雲守政近、肥志島紀伊守国貞らが相次いで城主を勤める。一国一城令で廃城。 |
上城 かみじょう |
所在地 宮崎市高岡町内山高手原
概要 尾谷城の曲輪のひとつ。 |
河上城 かわかみじょう |
所在地 宮崎市高岡町内山高手原
概要 尾谷城の曲輪のひとつ。 |
楠見城 くすみじょう |
所在地 宮崎市高岡町高浜城ノ山
概要 嘉慶・永享年間頃、税所肥前守の居城だった。 |
下ノ木場城 しものこばじょう |
所在地 宮崎市高岡町内山高手原
概要 尾谷城の曲輪のひとつ。 |
城ヶ峰遺跡 じょうがみねいせき |
所在地 宮崎市高岡町花見城連
概要 地名から城館跡と推察されているが、遺構は未検出。 |
高岡城
たかおかじょう |
所在地 宮崎市高岡町内山大迫、麓
築城者 伊東氏・島津義弘
概要 別名天ヶ城、または麓城ともいう。以前は内山城とよばれていたこともある。後に伊東氏48城のひとつとなる。関ヶ原の戦いの後、島津義弘が防御拠点として整備し、6つの曲輪を持つ大規模な山城とし徳川方の侵攻に備えた。
駐車場 あり(無料/桜の季節は有料になることもあり)
雑感 模擬天守の天ヶ城歴史民俗資料館があり、遠くからも見えるので町のシンボルとしても機能している。歴史にあまり詳しくない人たちが、「高岡にもこんな立派な城(建物のこと)があったのだなぁ」と勘違いすることも多い気がします。サクラやツツジの花見の場所としても、地元では有名。 |
長崎城 ながさきじょう |
所在地 宮崎市高岡町五町長崎
概要 柚ノ木崎城に関連する城郭跡。 |
平賀城 ひらがじょう |
所在地 宮崎市高岡町五町原ノ薗
概要 1387(嘉慶元)年、伊東祐能(祐賀?)の居城となるが、1433(永享5)年に落城したという。 |
福ヶ城 ふくがじょう |
所在地 宮崎市高岡町内山高手原
概要 尾谷城の曲輪のひとつ。 |
星崎 ほしざき |
所在地 宮崎市高岡町下倉永星崎、上堀、下堀 |
穆佐城
むかさじょう |
所在地 宮崎市高岡町小山田麓、上新城、新山
築城者 足利尊氏
概要 島津荘穆佐院の中心地にある、日向国内で最も歴史ある城のひとつ。建武期から足利氏領だったため、南北朝期には北朝方の日向国大将・畠山直顕の拠点だった。その後、伊東祐広(南朝)、土持宣栄(北朝)、菊池武光(南朝)などが相次いで攻め落とす。1403(応永10)年、島津久豊が入城。島津氏の宮崎平野攻略の橋頭堡となる。1445(文安2)年からは伊東氏が支配する。伊東氏48城のひとつとなり、永禄年間の城主は落合兵部少輔。伊東氏の没落後は島津領となり、藩政期の薩摩藩の外城(郷)体制下では山麓に支配の拠点を移す。
駐車場 なし
雑感 穆佐小学校の裏山で、城域は南北約280m、東西約550m、面積約12haという大規模なもの。少し離れたところに、島津久豊の墓もある。西北端にある曲輪には、明治時代の海軍軍医総監で脚気の原因をつきとめたことでビタミンの父と言われ、後に慈恵医科大学を設立した高木兼寛の生家跡があり、顕彰碑が建っている。 |
向屋敷 むかいやしき |
所在地 宮崎市高岡町五町向屋敷 |
柚ノ木崎城 ゆのきざきじょう |
所在地 宮崎市高岡町五町宮ノ谷
概要 伊東氏の臣で日向第一の槍の名手と言われた柚木崎丹後守の居城だった。丹後守は木崎原の戦いで島津義弘と斬り結ぶが討ち死にした。 |