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延岡市の城館

町の情報/延岡市延岡観光協会

青谷城
あおやぎ

所在地 延岡市下三輪町青谷城

概要 神社跡などはあるが、城跡である確証なし。気になる地名ではある。

天下城
あもりじょう

所在地 延岡市天下町雨下中須、中ノ坪、井の迫、筒井

概要 堀切跡、多郭式の曲輪跡は見られるが、文献なし。

稲葉崎外城
いなばざきほかじょう

所在地 延岡市稲葉崎町外城

井上城
いのうえじょう

所在地 延岡市古城町古城、六反田、古城下、天守山、延岡市三須町越ノ前、古城下

築城者 土持栄綱、または国綱(いずれも推定)

概要 築城時期については、史料などにより1177(治承元)年説や、1297(永仁5)年説などがあるが、現在では否定され、南北朝期の築造であろうと推定されている。西階城に移るまでの土持氏の居城だった。

駐車場 なし

雑感 県立延岡高等学校から西に進んだところにある山が城跡。実は同校は管理人の母校でもあり、この山のあたりはマラソン大会のコースになったり、寄り道して帰ったりなどよく行き来していた。そのころは、井上城の存在など露知らず‥‥(^_^;)
緑地公園として整備されたこともあるらしいが、現在では再び「山」に戻りつつあるようだ。

浦尻城
うらしりじょう

所在地 延岡市浦城町

概要 資料によっては浦城城、浦城水軍城などの表記もみられる。浦尻湾に突き出ている「おや鼻の丘」を城取りしたもの。城を守っていた松永吉清は大友宗麟に攻め滅ぼされたが「船隠しの入江」という地名や、河野越智氏が建てた六地蔵幢があるところから、伊予水軍の拠点だったらしいと推定されている。

御堂ノ下
おどうのした

所在地 延岡市須佐町御堂ノ下

概要 豊臣秀長の陣跡だったという伝承がある。

鬼ヶ城
おにがじょう

所在地 延岡市構口町鬼ヶ城

貝の畑城
かいのはたじょう

所在地 延岡市貝の畑町上貝、貝ノ畑

概要 五ヶ瀬川左岸の五輪塔群がある丘陵。

鹿越
かごえ

所在地 延岡市上三輪町鹿越

鹿小路囲
かしょうじかこい

所在地 延岡市鹿小路囲家敷

上伊形城
かみいがたじょう
所在地 延岡市上伊形町呂木、越路
北の城
きたのしろ

所在地 延岡市野地町平野、木ノ下

概要 地元の竜仙寺という寺に伝承が残っているらしいが、消滅(宅地)。

島の浦御仮屋
しまのうらおかりや

所在地 延岡市島浦町地下

概要 延岡藩の役所跡。

城ヶ鼻
じょうがはな

所在地 延岡市小峰町小峰、後田

概要 土累などが残る。西南戦争時の遺構の可能性もあり。

須美江会所
すみえかいしょ

所在地 延岡市須美江町樋之口

概要 延岡藩の役所跡。

土々呂松尾城
ととろまつおじょう

所在地 延岡市土々呂町城山

概要 土々呂町の北方の丘上にあった。門川の伊東方に対抗するため、天正年間(1573〜92)に土持親成が築造した支城ではないかと推定されている。

砦形
とりでがた

所在地 延岡市小野町砦形

概要 「砦形」という地名のみが残る。

中野城
なかのじょう

所在地 延岡市西小路西光寺、中野城

概要 宅地となり消滅。

中の城
なかのしろ

所在地 延岡市旭町中城

概要 旭化成ベンベルグ工場内に位置している。遺構は消滅。

西階城
にししなじょう

所在地 延岡市西階町置露、野田町野田、大貫町丸山

概要 別名宝坂城。1429(永享元)年、土持全宣がそれまでの居城の井上城からここに移った。門川城から圧迫してくる伊東氏と、西の三田井氏に対抗するために築城したもの。

延岡城
のべおかじょう

所在地 延岡市本小路、天神小路など

築城者 高橋元種

概要 別称県(あがた)城、または亀井城ともいう。関ヶ原の戦いをきっかけに、当時の県藩主・高橋元種が築城した。この場所に近世城郭としてはじめて築かれた城だと言われることもあるが、15世紀頃のものと推定される遺構も発掘されているという。高橋元種の改易後、有馬氏、三浦氏、牧野氏、と頻繁に領主が変わり内藤氏の代で明治を迎えた。

1655(明暦元)年、有馬康純(やすずみ)のとき本丸に三階櫓と二階門櫓が建造されたが、1683(天和3)年、城下から出火した火事により焼失。以後再建はされなかった。「千人殺し」といわれる本丸石垣などの遺構が残っている。現在、本格的な発掘調査が行われており大手門の位置や水堀とその石垣などが見つかっている。

本丸・二の丸は城山公園として整備され市のシンボルの一つとなっている。天守台跡には、鐘つき堂があり1878年以来時刻を告げ、市民に親しまれている。地元出身の歌人・若山牧水(日向市東郷町生まれ。旧制延岡中学校卒業)により「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬ をさなかりし日聞きしごとくに」と詠われたのがこの鐘だ。

旧西の丸跡に建造されたのが郷土歴史資料館「内藤記念館」。西の丸は、有馬直純の転封以来歴代藩主の邸宅があったところ。1939(昭和14)年に、内藤家より市に寄贈された。当時は邸宅も残っていたらしいが戦災で焼け落ち、戦後に鉄筋コンクリートの資料館が建てられた。館内には1862(文久2)年製作の延岡城模型や有馬家家中地図、天下一と謳われる能面などの他、古代から近世にいたる延岡地方の歴史的遺物が多数収蔵・展示されている。入館無料。

駐車場 あり(無料)

雑感 「千人殺し」の石垣の説明で「一番下の礎石をはずすと、石垣が一気に崩れ千人の敵を殺せる」という説明がされているが、戦闘中に敵のまっただ中に降りていって礎石をはずすというのは不可能に近い(はずした者も、生き埋めとなるし)ので、おそらく一番上の要石的などれかをはずすと、バランスを崩して一気に落石する設計になっていたのだろうと思う(後日、延岡市教委の人に聞いたところでは、史料にはないらしい)。

ニの丸跡は、以前猿山を中心とした小動物園があったが、現在木造風の「管理事務所」が出来、こぎれいに整備されつつあるようだ。

古城
ふるじょう

所在地 延岡市古城町古城

概要 井上城の関連施設と考えられるが、消滅(宅地)。

行縢要害
むかばきようがい

所在地 延岡市行縢町

概要 『延陵世鑑』に記述があるが、場所は特定されていない。

牟志賀軍営
むしかぐんえい

所在地 延岡市無鹿町無鹿友内

概要 1578(天正6)年、伊東義祐を日向に戻すという口実で攻め入った大友宗麟が築いた陣屋の跡。「むしか」とは、ラテン語で音楽の意味。初め宗麟の本陣は大分県宇目にあり、家臣の佐伯宗天を派遣して県を統治したという。その後宗麟自ら、親族や宣教師を引き連れてこの地に陣所を構え、キリスト教の理想郷を作り上げようとした。ところが、島津勢を叩くために送り込んだ大友軍主力が、耳川の戦いの敗戦により壊滅的打撃を受けたため宗麟もやむなく豊後に退却した。

社ヶ原軍営
やしろがはらぐんえい

所在地 延岡市稲葉崎町社ヶ原

概要 土持氏を攻めた際の大友軍の陣屋跡。

延岡市の資料館

 

内藤記念館
ないとうきねんかん

所在地 延岡市天神小路

概要 延岡城西の丸跡に建造された郷土歴史資料館。西の丸は有馬直純の転封以来、歴代藩主の邸宅があったところ。1939(昭和14)年に、最後の延岡藩主だった内藤家より市に寄贈された。当時は邸宅も残っていたらしいが戦災で焼け落ち、戦後に鉄筋コンクリートの建物が建てられた。館内には1862(文久2)年製作の延岡城模型や有馬家家中地図、天下一と称された能面などの他、古代から近世に至る延岡の歴史的遺物が多数展示・収蔵されている。

駐車場 あり(無料)

入場料 無料

延岡市北浦町の城館

 

市尾内
いちびうち

所在地 延岡市北浦町三川内木浦内

概要 「倉屋敷」という地名が残る。

中水流
なかづる

所在地 延岡市北浦町三川内中水流

本村
ほんむら

所在地 延岡市北浦町古江本村

延岡市北川町の城館

 

鐘突き殿
かねつきでん

所在地 延岡市北川町川内名鐘突き山

概要 下記の牧之城関連の施設があったらしい。

川坂城
かわざかじょう

所在地 延岡市北川町長井川坂

概要 通称を城山(じょんやま)という。『延陵世鑑』に、土持氏の一党・藤田左近という者が拠っていたとの記述が見られる。

竹瀬城
たけぜじょう

所在地 延岡市北川町長井竹瀬

概要 現在は神社。上記、川坂城の出城だったらしい。

牧之城
まきのじょう
所在地 延岡市北川町川内名駱駝落山
概要 城があったとの伝承が残る。

延岡市北方町の城館

 

上畑
うわばた

所在地 延岡市北方町子上畑、猪渡


かこい

所在地 延岡市北方町美々地囲

概要 現在は美々地神社が置かれている。

蔵田城(仮称)
くらたじょう

所在地 延岡市北方町辰野首

概要 通称を城ん鼻という。

高水流
こうづる
所在地 延岡市北方町卯高水流

じょう
所在地 延岡市北方町未城
曽木城(仮称)
そきじょう

所在地 延岡市北方町子下曽木

概要 現在は寺院がある。城があったとの伝承があるが、詳細遺構とも不明だという。

 

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