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木崎原の戦い


元亀3(1572)年

島津忠平
伊東義祐、伊東新二郎、伊東加賀守

この地方は古くから真幸院と呼ばれ戦国期は北原氏領だったが、島津氏との間で和睦が成立し、北原氏は伊集院に転封。代わって島津忠平(後の義弘)が飯野城に入り治めるようになった。

伊東義祐は相良氏、肝付氏などと連係して真幸侵攻を決意し、弟の伊東伊賀守等に兵三千を与え飯野城を迂回し後方の島津忠平の妻女がいる加久藤城を攻めさせた。城兵は城内から石を落とすなど激しく抵抗した。急を聞いた忠平は飯野城から打って出るが、手勢はわずかに三百。その少ない兵力をさらに分散させ、さらにあちこちに旗指物を立て、島津の大軍が着陣したかのように装った。

伊東方は体制を立て直すために、木崎原まで退却し一時休息に入る。そこに忠平が襲いかかり伊東方は総崩れとなる。さらに、退却の途中も島津方の伏勢に襲われ、主だった武将をほとんど失うという大敗を喫した。

この戦いで伊東氏は急速に力を失いやがて、豊後へと落ち延びることとなる。
一方、島津氏が九州全体へ飛躍するきっかけとなった戦いでもあった


 
忠平と新次郎が一騎打ちをしたと言われる三角田(左)/その後忠平が休息をとったという腰掛石(右)


ビューポイント/木崎原古戦場跡(無料Pあり)、加久藤城、太刀洗川跡、首塚

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