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関ヶ原外伝


慶長5(1600)年、慶長7(1602)年

稲津掃部助重政
権藤種盛

豊臣秀吉が亡くなり、しだいに徳川家康と石田三成の対立が深くなってくると、各大名はその去就に頭を悩ませていたが、伏見屋敷にありしかも病のために動けなかった飫肥領主の伊東祐兵もその一人だった。祐兵は懇意にしていた黒田如水に相談し東軍につくことを決め、如水の勧めで跡継ぎの祐慶を密かに飫肥に帰した。実は如水には家康と三成を戦わせて両者を弱体化し自らが天下を手に入れたいという策謀があり、伊東氏はそれにのせられる形で日向の西軍大名の諸領を奪い取る役目を担わされたとされている。

伊東氏の臣で清武城主の稲津掃部助重政はまず、高橋元種の所領だった宮崎城(城主/権藤種盛)を攻める。城には種盛以下五百の兵しかおらず、種盛は県(延岡)の本城に援軍を要請するが、拒否されてしまう。やがて城は、伊東勢三千の猛攻を受け落城し種盛も討死する。

掃部助はさらに、佐土原や穆佐なども攻めようとするが、関ヶ原から帰ってきた島津義弘が高岡に城(高岡城)を築くなどの対策を施したので、小競り合いのみに終始したようである。

関ヶ原の戦いの際、高橋元種は西軍の一員として大垣城にあったが、関ヶ原での西軍の壊滅を聞くと実兄の秋月種長らとともに寝返り、大垣城を攻めとったため家康により本領を安堵されていた。このため、掃部助が攻めとった宮崎城は高橋氏に返還されることとなった。

掃部助は、これをきっかけとして家中で次第に孤立するようになった。藩主・祐慶は掃部助を罷免しようとするが、掃部助は聞き入れず、ついに切腹を命じられる。掃部助はこれを聞き、わずかな手勢で清武城に篭城するが、本藩の兵に攻められ死んでしまう

管理人的には、種盛が援軍を断られた件といい、掃部助が家中で孤立していったことといい、どうやらそれぞれの家中での権力闘争、それも武断派と文治派の争いという天下の争いのミニチュア版が存在したような気がする。


 
2000年に開催された宮崎城四百年祭(左)/古賀病院にある権藤種盛の仮の墓(右)


ビューポイント/宮崎城、清武城

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