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椎葉山騒動


元和5(1619)年

那須弾正忠・那須主膳
向山十三人衆
阿部四郎五郎正之・大久保四郎左衛門忠成

 

この頃の椎葉山は那須大八郎の子孫を称する那須左近太夫(小崎城主)、那須弾正忠(向山城主)の兄弟など、十三人衆と呼ばれる首領達が事実上支配していた。

このうち弾正忠は、秀吉のタカ匠落合新八郎を饗応したことで朱印状を授かる。この御朱印派の那須兄弟と、その他の首領達との間で対立が生じた。

一度は高橋元種によって事態が収集されたが、弾正忠が死去すると反御朱印派が再び決起。向山城を攻め、弾正忠の子・久太郎を殺害。たまたま在城していた左近太夫の孫(父は主膳)仙千代(専千代)も殺害されたため、主膳は幕府に訴え出た。

幕府は阿部四郎五郎正之、大久保四郎左衛門忠成に討伐を命じる。両名は相良兵の案内で椎葉に入り、反御朱印派140人の首を刎ね乱を鎮めた。このとき、反乱側の婦人約20名が自害した。これを「千人ざらえ」という。以後椎葉は幕府領となった。

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