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庄内合戦


慶長4〜5(1599〜1600)年

島津忠恒、義久、義弘
伊集院忠真、伊集院幸侃
徳川家康、 山口直友

 

直接の発端は、伏見の薩摩屋敷での島津忠恒による伊集院幸侃の誅殺である。

島津義久の重臣だった伊集院忠棟(幸侃/こうかん)は、豊臣秀吉の九州侵攻により島津氏が降伏した際人質の一人として上方におくられ、秀吉に重く用いられるようになっていた。幸侃は石田三成や秀吉に取り入り、ついに都城8万石を宛行われる。さらに、島津義久の跡継ぎである忠恒を廃し、自分の息子で島津義弘の娘婿である忠真に島津の家督を…という考えありとの報が三成より忠恒にもたらされた(#う〜ん、謀略臭い)。そこで、忠恒は幸侃を伏見に呼びつけその場で手討ちにした。

幸侃が殺されたことを聞いた忠真は一族郎党協議の上、都之城をはじめとするいわゆる12外城に拠って島津に抵抗することを決意する。忠恒も帰郷し12外城を取り囲み、高崎町の東霧島(つまきりしま)に本陣を構え、島津豊久・島津以久・鎌田政近・上井覚兼らとともに攻撃を開始する。

一方、五大老のひとりで当初より忠恒を支持していた徳川家康は九州の諸大名に忠恒支援を命じるが、伊東祐兵や加藤清正は忠真を助ける動きも見せ乱は長期化の様相を呈していた。家康は、家臣の山口直友を派遣し講和交渉を始めさせ、1年近く続いた攻防戦の末、忠真もついに調停を受け入れ降伏し、頴娃(えい)2万石に転封されることになった。

1602年、島津忠恒は上洛の途上で忠真を暗殺し、乱に最終的な決着をつけた。

背景には、忠恒が義久の跡継ぎとなったときの家督争い(幸侃は義久の女婿の子の信久を押していた)や、反豊臣政権の義久と秀吉シンパの義弘との確執など幾つかの要素がみてとれる


ビューポイント/都之城、志和池城、森田陣跡(以上、都城市)、伊集院忠真の墓(野尻町)

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