[1995年度宮崎産業経営大学経済学部共同研究報告論文集『文学と絵画』、1995年3月、pp. 29-48.]
プルーストと絵画
成沢広幸
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マルセル・プルーストは1871年に生まれ、1922年に没した。歴史的に見ると、普仏戦争終結にともなう第二帝政崩壊時のパリ・コミューンのさなかに生まれ、第三共和政とともに育ち、世紀末に青春を送り、所謂ベル・エポックを生き、第一次世界大戦を経験して両大戦間に没した、ということになる。そして今日プルーストというと、現代文学の深淵に位置する作家というイメージのせいで、現世紀すなわち20世紀の人間のように捉えられがちであるが、アントワーヌ・コンパニョンの指摘を待つまでもなく、生没年を見てもわかるとおり、プルーストは20世紀の開拓者というよりも、むしろ19世紀の遺産相続人という面が強いのも忘れてはならない。
いささか紋切り型、教科書的な表現をすれば、フランスにおいては、文学的には19世紀前半はロマン主義を中心とし、後半は、高踏派、写実主義や自然主義、象徴主義などがたがいに並存する時期を含めて消長した。美術では、一方に官展つまりサロンを中心として新古典主義の流れをくむアカデミスムの画壇が存在し、他方最初はそれに対立する形でロマン主義、写実主義、印象主義、象徴主義、後期印象主義など前衛的な流派が相次いで生起し、あるものはサロンに吸収され、またあるものは反俗の立場を貫いた。時代の開拓者であるまえに先ずはその遺産相続人であるというプルーストの絵画観、ひいては芸術観を知るには、このような19世紀の芸術の諸潮流を踏まえておく必要がある。プルーストはそれらの「遺産」を相続・活用し、まったく違った形にして次世紀に引き渡したのである。ただしプルースト自身がそうした流派に身を投じたり、ある流派のプロパガンダを行ったということではない。このことは、プルーストが自己の芸術観の形成にあたって、ただちに前衛的な諸思潮を無反省に取り入れたのではないということを意味している。さらにプルーストはそうした諸思潮、諸思想のあいだの相違というものは「芸術」にとって本質的なものではない、ともいっている。なるほど当時にあってはそれらは決定的なものとして意識されたであろうが、後世からみればそうした相違は解消され、同じ地平線上に並存しているように見えるというのである。
おそらく地平線上のあらゆる物体を等距離に見る錯覚と同じような錯覚を起こして次のように想像することはよくあることだろう、すなわち今日までに絵画や音楽におこった革命は、少なくともある種の芸術的法則だけは重んじていた、ところが現にわれわれの目前にあるもの、印象派、不協和音の探求、中国の音階一辺倒の使用、立体派、未来派などは、それに先立った芸術とは徹底的に異なっている、と。それは、われわれがそれに先だって発生したあらゆる流派を一体のように見なすからであり、長年の同化作用が諸流派を溶解して、変化はあるけれども全体としてみるならば同質であると見えるもの(そこではユゴーがモリエールに隣り合っている)につくりあげたことを考慮に入れ忘れているからである。『花咲く乙女たちのかげに』
またプルーストは、むき出しの思想は値札のついたままの商品のようなものだととも言っているので、あらわな主義・流派などにたいして距離を置いているといえるだろう。後述するように、プルーストの思考には象徴主義的要素が強いとはいうものの、それは流派としての象徴主義には精神的影響を受けたであろうが、それに則ったものではなくて(そもそも文学史において象徴主義とは先駆者ボードレールにしても、苦行者マラルメにしても、いずれの詩の領域での運動であった)、また、プルーストのコレージュ時代の哲学教師アルフォンス・ダルリュの思想的影響が夙に指摘されているように、非常に古典的、伝統的な形での思考なのである。
さて、本稿のテーマのプルーストにおける絵画であるが、単にプルーストの絵画的好みを知るだけの目的ならば、たとえば、プルーストが、パリ、アムラン街44番地のアパルトマン(現在はホテルになっている)で肺炎のために亡くなる2年前、すなわち1920年に「ロピニオン」紙が行ったアンケートを見るだけで充分だろう。同紙は当時、ルーヴル美術館がイタリア絵画の傑作のための特別展示室をもうけた折に、何人かの芸術家、作家、美術愛好家たちに、もし新たな特別展示室にフランス絵画を八点飾るとしたらどのようなものが適当か、というアンケートをとったが、そこに示されたプルーストの選択は以下のようであった。シャルダンの『自画像』、シャルダンによる『シャルダン夫人の肖像』、シャルダンによる『静物』、ミレーによる『春』、マネによる『オランピア』、ルノワール一点あるいはコローによる『ダンテの小舟』あるいは『シャルトル大聖堂』、ヴァトーの『つれない男』あるいは『船出』。
だが、そうした絵画と文学の関わりということになると、『失われた時を求めて』をはじめとして、彼の若年から晩年にいたるまでの様々な作品を精査しなければならないだろうが、本稿では時間と紙幅の制約上、プルーストの膨大な書簡(代表的な書簡集としては、フィリップ・コルブ監修『プルースト書簡全集』全21巻、プロン社、がある)は原則として除外する。
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プルーストにおける絵画作品を具体的に扱った代表的なものとして、『マルセル・プルーストの見い出された美術館 LE MUSEE RETROUVEE DE MARCEL PROUST 』と『プルーストと画家たち PROUST ET LES PEINTRES 』の二冊が挙げられるだろう。前者、すなわちフランソワ・ミッテランが序文を寄せているヤン・ル・ピションの『マルセル・プルーストの見い出された美術館』では、プルーストの諸作品や書簡などから実際に存在する40人あまりの画家とその作品65点をとりあげて、関係するテクストとともに載せている。そこで取り上げられ、われわれになじみのある主な画家やその作品をざっと見るだけでも次の通りである。フェルメール(『デルフトの眺望』)、ウィリアム・ターナー(『カルタゴを建設するディードー』)、カミーユ・コロー(『シャルトル大聖堂』)、ユベール・ロベール(『噴水』)、ジョットー(『慈悲』、『妬み』、『正義』、『不正』)、ボッティチェルリ(『イェトロの娘たち』)、ラファエル(『ラ・フォルナリナ』)、ドメニコ・ギルランダイヨ(『老人と子供』)、フラ・バルトロメオ(『サヴォナローラの肖像』)、フラ・アンジェリコ(『聖処女の戴冠』)、カルパッチョ(『十字架の奇跡』)、大ブリューゲル(『ベツレヘムの人口調査』)、レンブラント(『夜警』、『芸術家の肖像』、『瞑想する哲学者』、『エマオスの巡礼』)、アンドレア・マンテーニャ(『聖ヤコブの殉教』)、ヴェラスケス(『槍の陣』、『官女たち』)、ファン・ダイク(『リッチモンド公の肖像』、『チャールズ1世』)、フランス・ハルス(『養老院女性幹事像』)、ジャン・バチスト・シャルダン(『食前の祈り』、『働く母親』、『自画像』)、ル・グレコ(『オルガス伯爵の埋葬』)、ルーベンス(『マリ・ドゥ・メディチの生涯』)、アングル(『浴女』)、マネ(『オランピア』、『アスパラガス』)、ギュスターヴ・モロー(『青年と死』、『出現』、『オルフェの頭を持つ若い娘』、『サッフォー』)、ピエール・ポール・プリュドン(『犯罪の後の正義と神の復讐』)、プーサン(『無辜の幼児の虐殺』、『春あるいは地上の楽園』)、ミレー(『春』、『まき割』、『祈り』)、モネ(『ルーアン大聖堂』、『花のある庭』、『青い睡蓮』)、ホイッスラー(『レディー・ムーの肖像』)、ヴァトー(『シテールへの上陸』、『つれない男』)、レオン・バクスト(『ル・ペリ』)、ルノワール(『シャルパンティエ夫人と子供たち』、『傘』)、ドゥガ(『青い踊り子たち』、『楽屋の踊り子』)。
また、後者すなわち1991年7月1日から11月4日までシャルトル美術館で開かれたプルースト展の大部のカタログ『プルーストと画家たち』には、マンテーニャから始まりマリ・シェイケヴィッチに至る120点以上の絵画やデッサンが、関係するテクストとともに収められている。前掲の『マルセル・プルーストの見い出された美術館』と、当然のことながら重複するところが多いのだが、ル・ソドマ(『サン・セバスチャン』)、ブーシェ(『パストラル』)、シャセリオー(『カバリュス嬢の肖像』)、フロマンタン(『猟の出発』)、シャヴァーヌ(『聖ジュヌヴィエーヴの幼年時代のための男の習作』)、シスレー(『モレ・シュル・ロワン運河の岸』)、ルドン(『1908年頃のヴェネツィア風景』)、ピサロ(『村の教会の鐘楼』)、ティソ(『回復期:ニュートン夫人』)など、前掲画集には収録されていない、より多数の絵画作品を収録しているほかに、マティルドゥ皇女(『画家』)、マドレーヌ・ルメール(『花束』、『花』)、ジャック・エミール・ブランシュ(『ノアイユ伯夫人アンナの肖像のための習作』、『アンリ・ベルグソン』)、ラ・ガンダラ(『ロベール・ドゥ・モンテスキューの肖像』)、エルー(『エルー夫人と娘エレーヌ』)、ロベール・ドゥ・モンテスキュー(『無題』)など、プルーストが社交界において交際していた芸術家・名士たちの作品もまた収録されているのが特色である。
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一般に文学者が自らの作品に絵画作品を引用する場合、二つの方法が考えられる。一つは絵画を、多少なりとも物語の展開の契機として提示するやり方である。たとえば、オデットにたいするスワンの欲望を始動させる役割を果たすボッティチェルリの『イェトロの娘』。もう一つの方法は、「美術館とはもっぱらさまざまな思想が収められた家である」というように、絵画を画家の精神の現われとしてとらえる場合であり、このとき、絵画論は必然的に芸術論にならざるを得ない。『失われた時を求めて』においてもこのような絵画作品への二つの異なったアプローチが見られる。
彼女(オデット)はシスティナ礼拝堂の壁画にある、イェトロの娘チッポラーの顔に似ていることで、スワンの胸を打った。スワンはずっと以前から、巨匠の絵の中に、われわれをとりまく現実の普遍的な特徴ばかりでなく、それとは逆に、普遍性のもっとも少なく見えるようなわれわれの知人の顔の個性的な特徴をも、そこに見つけることが好きだという、そんな特別な趣味をもっていたのであって、たとえばアントニオ・リッツォの手になるヴェネチア総督ロレダーノの胸像では、頬骨の出っ張りから眉毛の斜めの線に至るまで、かれの御者レミにあっと言うほどよく似ていること、ギルランダイヨの彩色はパランシー氏の鼻の色とそっくりであること、ティントレット作のある肖像画では、頬ひげを初めてたくわえた頬の脂肪の膨らみ方や、鼻の割れ方や、突き刺すようなまなざしや、目の充血などが、デュ・ブールボン医師とそっくりなことを、見つけていたのであった。『スワン家のほうへ』
数歩はなれたところに、お仕着せを付けた一人の巨漢が、じっと彫刻のように動かず、何もせずに夢見ていた。それはマンテーニャの騒然とした画面で、まったく装飾的につけくわえられた戦士が、そばでほかの戦士たちが格闘し、殺しあっているのに、一人だけ楯にもたれて夢想にふけっているのを見るような気がした。またスワンのまわりにつめかけた仲間から離れて、その男が青緑色の残酷な目で漠然と追っているのは、まるで『幼児の虐殺』か『聖ヤコブの殉教』であるかのようで、彼はその場の光景に無関心を決意しているように見えた。『スワン家のほうへ』
「いやな女だね!サヴォナローラに似ているだけが取柄だよ。いやまったくフラ・バルトロメオの筆になるサヴォナローラの肖像にそっくりだ」絵画に類似を求めるスワンの狂癖には弁護の余地があった。『花咲く乙女たちのかげに』
「たとえばヴェラスケスの『槍の陣』のなかで」とシャルリュス氏は続けた、「征服者がもっとも屈辱を受けている人間のほうに進み出るように、いや、高貴な存在がすべてそうすべきであるように、というのも私はすべてであり、あなたは無だったのだから、私がまず最初の歩みをあなたのほうにふみだしたというわけですよ」『ゲルマントのほう』
水晶の薄片のようにまぶしく日に輝くこの館の広い四角な窓窓が、掃除などで開け放されているとき、異なる階のあちこちで、はっきりとは見分けられないが、カーペットをたたいている、そんな下廻りの従僕たちを目で追っていると、ターナーやエルスティールに風景の中で、サン・ゴタールの異なる高度のあちこちに、乗合馬車に乗った旅人、またはガイドを見る場合と同じ楽しみが得られるのであった。『ゲルマントのほう』
これら一連の引用の最後として、文学者ベルゴットの死の場面に関わっている17世紀オランダ、デルフトの画家フェルメールを取り上げてみよう。オランダ絵画展に出品されていたフェルメールの『デルフトの眺望』のなかのある部分が絶賛されているのを知って、ベルゴットは病身をおして出かけていくが、その会場で彼は発作におそわれて亡くなることになる。
彼(ベルゴット)は次のような状況の中で死んだ。かなり軽微な尿毒症の発作があって、彼は安静を命ぜられていた。しかしある批評家が書いているものによると、フェルメールの『デルフトの眺望』(あるオランダ美術展のためにデン・ハーグの美術館から借りられたもの)、彼が大好きでよく知ってるつもりだったこの油絵の中に、黄色い小さな壁面(それが彼にはよく思い出せなかった)が、実によく描かれていて、そこだけを単独に眺めても、充分に自足する美をそなえていて、すばらしい中国の美術品のように美しい、とあったので、ベルゴットはじゃがいもを少し食べ、外出し、展覧会場に入った。階段をまず二三段登ったとたんに、彼はめまいに襲われた。[]やっとフェルメールの絵の前に来た。その彼にはおよそ知っているどの絵よりもはなやかで他とはかけはなれていたという記憶があった。しかし彼は批評家の記事のおかげで、いま初めて、青い服を着た小さな人物が何人かいること、砂がバラ色をしていることに気がついた。そして最後にほんの小さくでている黄色い壁面の見事なマチエールに気がついた。めまいがひどくなっていく。[]しかしめまいのひどさを彼はちゃんと自覚していた。彼の目には天の秤に、自分の生命が一方の皿にのっているのが見えた。もう一方の皿には、黄色で見事にかかれた小さな壁がのっている。彼は小さな壁のために無謀にも命を犠牲にしたことを感じていた。[]第二の発作が彼を打ちのめした。長椅子から床へ転げ落ちると、見物人や番人たちがみんな駆けつけた。彼はもう死んでいた。『囚われの女』
ここまでならば、上記の数例と同じく会話の話題、あるいは画中の人物と作中人物との類似など、物語に多少の展開を与えるだけの絵画引用、すなわち先に述べた第一の方法にあたるといえるだろう。しかしこの死の描写の後で語り手は次のような考察を巡らしている。それは単にフェルメールという個別的な芸術家の考察にとどまらず、そういう、具体的に画家という形を取った「芸術家」が真に存在し、生きるのはこの現世ではなくて、他の世界なのだという象徴主義的、二元論的な思想が語られている。
この地上でのわれわれの生存の条件の中には、善をなせ、こまやかな心遣いをせよと行った義務、いや礼儀正しくあれと行った義務さえも、それを人に感じさせるような理由は一つもないのだし、また神を信じない芸術家にとっては、永久に未知のままの一芸術家、わずかにフェルメールという名で判別されるにすぎない芸術家が、あのように多くの技術と洗練とを重ねて描いた黄色い壁のように、一つの断片を二十度も繰り返して描く義務を感じる理由は何一つないのであって、たとえその断片が人の賞賛をかきたてることになるとしても、蛆に食われる自分の肉体にとってはどうでもいいことであろう。現世で報いられることのないそれらの義務は、いずれもある別の世界の属しているように思われる。その世界は、善意と細心と犠牲心の上に築かれる世界であり、この世とはまったく違った世界であって、われわれはその世界を出てこの地上に生まれ、やがておそらくはその世界に帰って、知られない数々の掟の支配の下に再び生きるのであろう。ただわれわれがそこに帰るまでにこの世でそれらの掟に従ってきたのは、われわれが心の中に、誰が書きつけたのかは知らずに、それらの掟の教訓をすでにもっていたからなのだ。『囚われの女』
以上、いくつか引いた例はそのいずれもが『失われた時を求めて』から採られている。だがそれ以前にもプルーストは絶えず小説を試み、評論を執筆していたのであり、その中には当然プルーストの絵画観を知ることのできるものも多く存在する。若きプルーストは絵画についてどのような態度をとっていたのであろうか。
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プルーストが初めて単行本の形で自分の作品を世に問うたのは1896年である。『楽しみと日々』という、ヘシオドスのパロディーである題名をもち、アナトール・フランスが序文を寄せたこの小品集には、それまでに同人誌、文芸誌や新聞などに載せたり、新たに書き下ろしたりした短編や詩、評論的な断片などが混在している。絵画に関しては、アルベルト・カイプ、パウルス・ポッター、アントワーヌ・ヴァトー、ファン・ダイクの四人についての比較的短い詩が収められているが、いずれもそれぞれの絵にもとづいた叙景的なもので、とくに取上げる必要はないだろう。
また、当時プルーストは数年来書きついできた小説『ジャン・サントゥイユ』をほとんど放棄・断念しつつあったが、この未完の小説は、素材的にはほとんど『失われた時を求めて』を先取りしているとはいうものの、各断片を総合する視点に欠けていたために放棄のやむなきに至ったものと考えられている。例えば、本稿に関係したところでいうと、『ジャン・サントゥイユ』には「芸術家の教養小説」という視点が存在しなかったため、作家、画家、音楽家などといった芸術家が描かれても、彼らは孤立しており、主人公のまなざしを芸術のほうに向ける役割は担っていない。彼らは主人公のクロノロジーのいわば装飾にすぎない、偶然的な存在なのである。したがってほとんど彼らの引用は、上記の第一の方法、すなわち物語の広義における展開のために行われている。いくつか例を見てみよう。
その年、ラ・ガンダラはシャン・ド・マルスでジャン・サントゥイユの肖像画を展示した。『ジャン・サントゥイユ』
二人は一緒にベルゴットの展覧会へ行ったが、ジャンも叔母も彼を当代きっての偉大な画家と見なしていた。この展覧会を機に、彼が何年も前から会員になっていた学士院は盛大な祝宴を催し、政府はレジョン・ドヌールの最高勲章を贈り、ヨーロッパのあらゆる元首は彼に書簡を寄せていた。『ジャン・サントゥイユ』
それは大画家マルシアルの細君で、夫の方は九十歳だというのに、今でも芝居や社交界に行き、展覧会ではその油絵が依然として賞賛を集めていた。彼はひどく腰の曲がった危なっかしい老人であった。そして一つの光の大きさによって、その光がはるか遠くにおかれているという観念を与えるように、彼に目に宿る小さな輝きは、彼がはるかかなたに位置する精神の底の方から、おそらくは彼の全盛期の歳月の奥底から、すべてを眺めていることを示しているように思われた。そしておそらくはそこから、その古色蒼然として入るがしかし習慣の力で彼の奥底に保たれてきた彼自身の宮殿から、彼は今もなお独特の貴重な金色や、ユニークな緋の色を引き出してきて、それを彼の震える手がカンヴァスの上におくのであろう。『ジャン・サントゥイユ』
だが、最後の引用の後半は、画家の精神にまで踏み込みつつある考察ともいえるであろう。そうした『ジャン・サントゥイユ』では稀な例が、モローについて一例だけ存在する。すでにこの考察は『失われた時を求めて』のものといってもよいほど、後年のプルーストの芸術観に接近している。
もしかりに人が、ギュスターヴ・モローのすべての絵の中で夢に浸った目つきをしてよりかかっている、蓮を編んだような髪をしたあの神秘的な裸の人物たちの中に、いっそう深く入り込もうと思っても、あるいはまた、岩のくぼみに一個の小さな像が立っているあの絶壁をよりよく知ろうと思っても、決して成功することはないであろう。そのためにギュスターヴ・モローの生活を細かく知り、彼と芸術や人生や死について語り合い、毎晩のように彼と一緒に食事をしても無駄であって、そうした画題の起源やその意味などをとりまく神秘の中に、より深く入り込めはしないのである。それに正直なところ、モロー自身にしても、その起源や意味をもっとよく知っているわけではなく、それらのものは奇妙な人魚のように、彼を襲う霊感の潮に乗って、貴重にも彼のところへもたらされたものなのである。かれがそうしたものについて他人に言えることは、それを作り出したときの状況や、創作のごく平凡な部分(どんな景色を見たか、どんな焼き物に感心したか、など)にすぎず、それらに統一を与えるあの不思議な類似とは無関係であろう。そして確かに彼の精神のみがその類似を引き出し、またその類似のみが彼の精神をとらえてこれを解放するのである以上、その類似の本質は彼の精神と一体化しているには違いないが、しかし彼にとってもやはりこれは未知のものなのである。『ジャン・サントゥイユ』
ここでは、日常的な生活をする自我と、作品を創造する自我の二つの自我が存在すること、そしてこの二つの自我のあいだに連絡はないことが語られている。プルーストの大きなテーマの一つである外観と本質の対立が早くもこの時期にあらわれていることは注目に値する。だが、このようにわずかな例外をのぞいては、『ジャン・サントゥイユ』のおいて絵画は「芸術」と結びついた考察の形ではあらわれていないといえるだろう。
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それにたいして『ジャン・サントゥイユ』放棄後、そして『楽しみと日々』の刊行後の1890年代後半、すなわち作家が二十代後半において執筆したと推定される一連の画家論・絵画論が存在する。それらは、『シャルダンとレンブラント』、『レンブラント』、『ヴァトー』、『ギュスターヴ・モローの神秘的世界についての覚え書き」、『画家、影 モネ』の五編である。これら一連の画家論では『失われた時を求めて』の芸術論をほとんど先取りしている考察が随所に、しかも単独の画家論であるだけによりいっそう明解な形で見られる。そこに現れているのは、「この世界は、真実の世界ではなくもっとも卑俗な世界であり、われわれのもっとも外面的な魂に、詩人においては他の人々の魂とほとんど変わることのないような魂に相応じた世界なのである」という考察が典型的に示すように、この世を仮象の世界と見なし、芸術家の魂の祖国であるような本質の世界がどこか地上を離れたところにあるのだという、象徴主義的思考である。かくしてプルーストの芸術論の根底には常にある種のプラトニスム、イデアリスムが存在するのが見られる。
したがって芸術家はその祖国を、画家であれば色彩に定着しようとする結果、常に同じ世界の光景を描くこととなるのだ。「一点の絵とは、ある神秘的世界の一隅の出現とでも言うべきものであって、われわれはこの世界の他のいくつかの断片を知っているが、それらは同じ芸術家の手になるものなのである。われわれはどこかのサロンで喋っている。突然目を上げると、一枚の絵が見える。われわれの知らぬ絵なのだが、まるで前世の思い出のように、すでにどこかで見たような気がする」
また、次のような考察はまさに『失われた時を求めて』の芸術論の核心に触れるものといってもよい。
芸術作品がその断片的なあらわれであるような国こそ、詩人の魂であり、彼の真の魂であり、彼のすべての魂の中でもっとも根底にある魂であり、彼の真の祖国であるが、彼はごくわずかなときしかそこで生きることはない。芸術作品を照らし出している光やそこで輝いている色彩やそこで動き回っている人々が、知的な光であり色彩であり人々であるのはまさしくそのためだ。霊感とは、詩人がもっとも内的な魂の中に入り込むことができるような瞬間なのである。制作とは、そこに全体的に留まり、書いたり描いたりする間にそこに何一つ外から混ぜ合わさないようにするための努力なのである。『ギュスターヴ・モローの神秘的世界についての覚え書き』
作品とは決してさまざまな特殊な資質を見せびらかしたものではなく、われわれの生の中にあるもっとも内的なもの事物の中にあるもっとも奥深いものの表現なのだから、それはわれわれの生に訴えかける、われわれの生に触れ、それをゆっくりと事物の方に向かわせ、事物の核心に近づける。[]実際の話、創造的行為はそれをつらぬく法則を知ることから生まれるのではない。理解しがたい謎めいたある力、それを明らかにしてもそれを強化することにはならないようなある力から生まれるのだ。『シャルダンとレンブラント』
そしてそのような作品を産み出す人々、芸術家と呼ばれる人々は、彼らの真の祖国を失って流浪する悲惨な旅人のようなものだという次の考察は、はるか遠く『失われた時を求めて』の第五編『囚われの女』のなかの音楽についての考察と呼応している。
彼らの生活の残余の部分は、悲惨なものではないが陰鬱な、たいていは意識的な一種の亡命なのである。それというのも彼らは知的な亡命者であるからだ。亡命者となるや否や、同時に彼らは祖国の思い出を失ってしまう。彼らが知っているのは、自分達にも一つの祖国があり、そこで暮らす方が楽しいということだけだ。だが彼らには、どんなふうにしてそこへ戻ればいいのか分からないのである。[]だがしかし、彼らが彼ら自身である限り、つまり彼らが亡命者ではなく、おのれの内的な魂である場合は、彼らは一種の本能によって行動するのである。『ギュスターヴ・モローの神秘的世界についての覚え書き』
芸術家はそのようにして、その一人一人が、ある未知の祖国に生まれついた人間であるように思われる。彼は自分でその祖国を忘れてしまった。[]この失われた祖国、それを音楽家たちは自分に思い出さない。しかし彼らの各自が常に無意識の内にこの祖国とはある種の斉唱をなしてつながっているのである。その各自が自分の祖国にあわせて歌うとき[]そのとき彼はあの特異な歌を歌い出すのであり、その歌の同一調(というのも、とりあつかわれる主題が何であろうと、彼は自己と同一のものにとどまるからで)はその音楽家にあって彼の魂を構成する諸要素が確乎不変であることを証明しているのである。[]そういう言葉には言いあらわしがたいものを、芸術は、エルスティールの芸術と同様にヴァントゥイユの芸術は、われわれが個人の世界と呼んでも芸術なくしては決してわれわれに知られないであろうあの世界の内的構造を、スペクトルの色の中に顕在化することで、出現させるのではないだろうか。『囚われの女』
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さて、以上見てきたように、『失われた時を求めて』においても、あるいはそれ以前の諸作品においても、多くの絵画がプルーストの引用の対象になったのだが、前掲の『マルセル・プルーストの見い出された美術館』にしても、あるいは『プルーストと画家たち』にしても、これらはプルーストの作品にあらわれる画家、絵画をすべて網羅したものではない。また、これらはすべて実際に存在する絵画であり、プルーストが創造した画家、その絵画といったものは含まれていない。そして実をいえばこのような実際の絵画から導き出されてくる絵画的考察、芸術的考察というのはそれほど多くない。彼の芸術観との関係でわれわれの興味を引くのは、彼が創造した画家、それによって自分の芸術観を敷延するために創造した画家である。とりわけ『失われた時を求めて』では、そうした架空の画家、その作品などがプルーストの絵画観を知る上でより重要である。プルーストは自分の絵画観の展開の契機を、実際の画家や絵画作品よりも、自分の創造した画家により多く求めたのである。そして『失われた時を求めて』において、実在の画家で主な考察の対象となったのがオランダの画家フェルメールだとすれば、プルーストの創造した画家で、彼の絵画論の展開の場となったのは、エルスティールである。
この作品においてプルーストは、文学、音楽、そして絵画という、芸術の主な分野を代表する三人の人物、すなわち、文学についていえばベルゴット、音楽はヴァントゥイユ、絵画についてはエルスティールという三人の芸術家を創造し、主人公は彼らの作品を通して芸術に対する考察を深めていく。ちなみに、『失われた時を求めて』における彼らの名前の出現回数は、ベルゴット=299回、ヴァントゥイユ=302回、エルスティール=299回(若いころの通称「ビッシュ[=4回]」を含む)であり、見事なまでに頻度が同程度である。
ここで、エルスティールに限らず、ベルゴット、ヴァントゥイユでも、あるいは他の登場人物についても、いわゆる「モデル問題」が出てくる。『失われた時を求めて』の各編が次々と刊行されてくるにしたがい、その登場人物のうちに自分の姿を認めた人々が、あるいは憤慨し、あるいは作者と絶交し、あるいは誇らしく思い、あるいは暴露的な展開を恐れた、というのは事実である。プルースト自身も、一人の登場人物の背後には何十人ものモデルが存在する、と言ってはいるのだが、本稿では紙幅の関係上、この問題に立ち入ることは避ける。しかし、一応の参考として、最近続けて二冊の伝記(Ronald HAYMAN, PROUST A Biography, Harper Collins, 1990. Ghislain de DIEBACH, PROUST, Perrin, 1991. )が刊行されるまでは長らくプルーストの総合的な伝記の代名詞というべき地位にあったジョージ・D・ペインターの『マルセル・プルースト − 伝記』から、上記三人の「モデル」とされる人々の名を上げておこう。エルスティール(ジャン・ベロー、ジャック・エミール・ブランシュ、アンリ・ジェルヴェ、アレグザンダー・ハリスン、エルネスト・エベール、ポール・エルー、ギ・ドゥ・モーパッサン[作家]、クロード・モネ、ギュスターヴ・モロー、ウィリアム・ターナー、ジャン・エドワール・ヴュイヤール、ジェイムズ・マクニール・ホイスラー)、ベルゴット(モーリス・バレス、アンリ・ベルグソン[哲学者]、ポール・ブールジェ、アルフォンス・ダルリュ[プルーストのコレージュ時代の哲学教師]、アルフォンス・ドーデ、アナトール・フランス、ジュール・ルメートル[批評家]、エルネスト・ルナン[歴史家]、ジョン・ラスキン[美学者])、ヴァントゥイユ(ベートーヴェン、クロード・ドビュッシー、ガブリエル・フォーレ、セザール・フランク、エルネスト・ギロー、ヴァンサン・ダンディー、サン・サーンス)。
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さて、主人公はある年、海辺の避暑地バルベックでエルスティールに出会う。「この天才、この賢人、この孤独者、すばらしい会話をあやつるこの哲学者、あらゆるものの上にそびえ立つこの超人」は主人公より一世代上の前衛的な芸術家として設定されている。「しかし、自分で我慢ができる交際圏をもたないので、孤独の中で暮らし、社交界の人間がポーズとかしつけの悪さとか呼び、官憲が反抗の精神と呼び、隣人が狂気と呼び、家族が利己主義とか傲慢とか呼ぶ、あの野人の性格を保持して生きていた」この画家は上記の「モデル」でもわかるように様々な画家から特徴が採られているのだが、流派的には印象派風の大家として描かれている。ただし、プルースト自身がエルスティールを印象派であるとしたことはない。むしろプルーストは前述したように、芸術の流派的分類をほとんど無意味だと考えていた。「人々の理解を得られないうちはロマン主義者、写実主義者、デカダン等などと呼ばれた偉大な芸術家たちこそ、私が古典的存在と呼びたい人たちなのだ」
画家と知り合ってしばらくして主人公は「世界の新しい創造の実験室」である彼のアトリエに出かけるが、そこで画家の「精神が夢に誘われるとき、その精神を夢から遠ざけたり、夢の糧を制限したりしてはいけません。あなたが精神をその夢からそらせるかぎり、あなたの精神は夢を知ることがないでしょう。あなたはさまざまな物の外観にもてあそばれるようになります。なぜなら物の本性を理解する機会がなかったからでしょうから」とか「英知は受け売りで身につくものではない。誰も代わってやってくれない旅、誰も助けてくれない道のりを歩いたのちに、自分自身で発見しなくてはならないものなのです。なぜなら、英知とはものの見方なんですからね」などの発言とともに、制作中の、あるいはすでに制作された諸作品を前にして創造の核心に触れ、強い昂揚を覚える。「私は完全に幸福な自分を感じた、というのはアトリエのあらゆる習作に取り囲まれることによって、私は、自分が今まで現実の総体的な光景から切り離すことをしなかったさまざまな物の形への、喜びにみちあふれた、詩的な一つの認識にまで、自分で高まっていくことができるという可能性を感じ出したからであった」
そして対象を再構成することなく、視覚や感覚の錯誤の命ずるままに対象を描くというエルスティールの方法、「印象の根源そのものに誠実に立ち帰ることによって、一つのものを再現する、しかも最初にひらめいた錯覚の中でわれわれが取り違えてつかんだ別の物によって元の一つの物を再現する」方法、いわば視覚上の錯覚を再創造する方法が語られる。思えばこの方法は、次の引用に見られるように、語り手がセヴィニェ夫人においてすでに親しんでいた、文学と絵画に共通するものなのであった。
その美は、セヴィニェ夫人が、やがてバルベックで私の出会う画家で、ものを見る私の視像に非常に深い影響を与えたエルスティールと同系の大芸術家であるだけに、今後の私の心を、それだけ強く打つことになるのだ。私はバルベックで気がついたのだが、セヴィニェ夫人はエルスティールと同じように、ものをまずその原因から説明するということをせずに、われわれの知覚の順序にしたがって物をわれわれに表現してみせるのだ。『花咲く乙女たちのかげに』
もちろん、いま彼のアトリエの中にあるのは、ほとんどこのバルベックに取材された海の絵ばかりであった。しかしそこに私が見てとることができたのは、それらの絵の一つ一つの魅力が、表現された事物の一種の変形であるということであって、これは、詩において暗喩と呼ばれているものに似ているのだが、「父なる神」がものに名を付けることによってそれを創造したとすれば、エルスティールはものからその名を取り去る、またはものに別の名を与えることによって、それを再創造しているのであった。ものを示す名は、われわれの真の印象とは無縁な、理知のある概念に呼応するのが常で、理知はそうした概念に一致しないものをすべてわれわれの印象から消し去ってしまうのである。『花咲く乙女たちのかげに』
そうした暗喩的技法の一つ、「陸と海とを比較しながらそのあいだのどんな限界をも消し去っている技法」が比較的明解に見られる港の風景画の考察が数ページにわたって続くのだが、それは「小さな町を描くためには海に関する名辞しか用いず、海を描くためには町に関する名辞しか用いない」という方法で制作されおり、海と陸とが判別がつかないほど一体となり、家並みは船と見まちがい、マストは煙突と区別がつかず、「浜辺の前景では、陸と大洋とのあいだに、はっきりした境界、絶対的な限界を認めないように」なっていたのであり、まさしくそこには「外界の事物を、自分が知っている状態の通りに表現しないで、われわれの第一印象が作られるあの視覚の錯誤通りに表現しようとするエルスティールの努力」があらわれていたのである。
また、主人公は、かつて自分の生まれるころ、ヴェルデュラン家のサロンでビッシュと呼ばれていた軽薄で退廃的な画家が、いま目の前にいるエルスティールであることを知り、同一人物における今昔の質的断絶に衝撃を受ける。しかし「彼が持っているすべてのもの、思想でも作品でもその他もっと彼が価値を置かないようなものでも、彼はそれを理解するとにらんだ人には、だれかれなしに喜んでそれを与えただろう」というエルスティールは、困惑し幻滅を感じている主人公に、そういう段階が自分の「化身」にとって必要であったのだと語る。
いかにも真の巨匠らしく[]彼は若い人のために、最良の参考にもと、たとえそれが自分に関することでも、他人に関することでも、あらゆる機会から、そこに含まれる真実の部分を引き出してやろうとつとめていた。だから、自分の自尊心の腹いせになるような言葉よりも、私を教えるところが多いような言葉を彼は選んだ。「どんな賢人でも」と彼が言った、「その若い頃のある時期に、あとで思い出しても不愉快な、できることならそんな思い出を記憶から消し去ってしまいたいと思う言葉を口にしたり、生活を送ったりしなかった人は、一人もありませんね。しかしそれは絶対に後悔すべきものではないのです。なぜなら、賢人になると行っても、そうむやみにはなれないので、まず自分があらゆる笑うべきもの、厭うべきものに化身するという筋道を踏んでからでなくては、最後のそんな化身は得られないからです。[]あなたが賛美する生活、高貴だとお考えになる態度は、家庭の父親とか教師とかによって準備されたものではなくて、まずはじめは、生活をめぐる支配的な悪とか凡俗とかの影響を受けて、まるで違ったとんでもない出発点から踏み出したものであったのです。そういうものが闘争と勝利をあらわしているわけです。駆け出しの頃のわれわれの姿が、今はもう面影も認められないことを、どう考えても不快なものであったことを、私は知っています。けれどもその不快な姿は否認されるべきものではありません。なぜなら、それはわれわれが真に生きてきたというあかしなのであり、実生活と精神との法則にしたがって万人に共通の生活の諸要素から、たとえば画家ならば、アトリエの生活や芸術家仲間の生活から、その生活を凌駕する何物かを自分達が引き出した、というあかしなのですから」『花咲く乙女たちのかげに』
さて、主人公がエルスティールのアトリエを訪れて得た考察は、主人公が初めて招かれたパリのゲルマント家で数点のエルスティールを前にしたときにも行われている。
再び私はバルベックでのように、自分の前にあの未知の色彩の世界の諸断片をもつのであった。そうした世界は、この偉大な画家独特のものの見方の投影に他ならず、彼の言葉では全然言い表し得ないものであった。『ゲルマントのほう』
対象物の表面と容積とは、われわれがその対象を認めたときにわれわれの記憶が押しつけるそれの名とは実際において別物なのである。エルスティールは、彼がいま直接に感じとったものから、すでに知っていたものをはぎ取ってしまおうとつとめていた。それ以前からもしばしばそうであったが、彼の努力は、われわれが視像と呼んでいる推理力のあの集合体を解体してしまうことであったのだ。『ゲルマントのほう』
7
これまで見てきたのは主として、エルスティールの絵画そのものについての考察であった。だがプルーストは、これまでも、たとえば、モローに関して、あるいはヴァントィユについてみたように、絵画といい、文学といい、音楽といい、それぞれを個別的なもの、孤立したものという風に提示することはない。「現像力、すなわち作家のとっての文体とは、画家にとっての色彩と同様に、技術の問題ではなくて、視像の問題なのである」というように、個々の芸術を横断する総合的な視点に立ってプルーストは考察を進めているのである。そこから見えてくるのは、先に引用した一連の画家論でもたびたび出現した芸術家の「魂の祖国」、この世というまったく異なる世界への「一種の亡命」という考えである。そこにはプルーストの二元論的・象徴主義的な思考があらわれている。象徴主義といってもプルースト自身はただ難解なだけの彼ら象徴派詩人たちの独善をを非難して『晦渋性反駁』という小論を書いているほどであるが、ここでいう象徴主義的思考というのは、一種のプラトニスムと断ったように、外観と本質との対立ということである。こうした対立をプルーストが非常に早くから(少なくとも二十代半ばの未完小説『ジャン・サントゥイユ』の中で)意識していたのは、前述したように、当時の文芸思潮とりわけボードレールやマラルメなど象徴派詩人からの、あるいは、コレージュ時代の哲学教師でプルーストが傾倒したアルフォンス・ダルリュからの影響なども考えられるだろう。プルーストの場合、しかしこの二元論は二重となっている。まず芸術家の存在そのものについて、その日常的な姿と本質的な創造活動の対立がある。プルースト的な表現をすれば、「日常的な自我」と「深い自我」の対立である。
ベルゴットといい、ヴァントゥイユといい、若いころのエルスティールといい、彼らの日常的な姿は主人公に失望を与えるに充分なものである。世俗的なさらなる栄光、たとえばアカデミー・フランセーズ入りを求めて社交界を遊泳し、あちこちで阿諛追従をふりまくベルゴット、娘の同性愛という悪癖(19世紀である!)のために苦悩し、世間を避けて半ば隠棲したような生活を送る小市民ヴァントゥイユ、ヴェルデュラン家のサロンで軽佻浮薄、愚劣下劣な冗談を連発して皆の気をひくことに汲々としている若きエルスティール(通称ビッシュ)。そうした実生活上での彼らと、創造行為のさなかにある彼らは、同一の肉体を共有していても精神的には断絶しており、まったく異なる自我の下に生きているのだとプルーストは言うのである。そして、真の芸術家とは、モローに仮託して語られているように、「卑俗な魂に属するものを何一つまじり込ませることなしに、内的な魂の無疵のイメージを定着しようと努力」する存在、すなわち、もっとも内的な魂の中に入り込むことができる、霊感と呼ばれる瞬間に「全体的に留まり、書いたり描いたりする間にそこに何一つ外から混ぜ合わさないようにするための努力」する存在なのである。
そうした芸術家の存在そのものににひそむ対立以上に重要なのは、作品そのものについての二元論的考察である。芸術作品は、小説・詩・戯曲・絵画・ソナタ・オペラ・交響楽等などの個別的な形をとってあらわれるのだが、そうした作品の個別性を越えて、その向こう側に、いわば大文字の「芸術」が存在するというのである。芸術家の「魂の祖国」をそれぞれが想起するとき、あるものは音楽を聴き、あるものは色彩を見、またあるものは言葉を紡ぎだすのだ。かくしてプルーストにおける絵画論、音楽論、文学論は、必然的に大文字の「芸術」論に至らざるを得ないのである。
諸作品の間の相違とは、いろんな個性の間にある根本的な、本質的な相違の表現であるというよりも、むしろ仕事の結果そのものではないだろうか。『花咲く乙女たちのかげに』
参考文献
1. プルーストの作品
Marcel PROUST, A la recherche du temps perdu , nouvelle 仕ition, 4 volumes, Biblioth述ue da la Pl司ade, 1987-1989. (『失われた時を求めて』は七編に分かれている。第一編『スワン家のほうへ Du c冲 de chez Swann 』、第二編『花咲く乙女たちのかげに A lユombre des jeunes filles en fleurs 』、第三編『ゲルマントのほう Le c冲 de Guermantes 』、第四編『ソドムとゴモラ Sodome et Gomorrhe 』、第五編『囚われの女 La prisonni俊e 』、第六編『逃げ去る女 La fugitive 』、第七編『見出された時 Le temps retrouv 』。なお適宜、1954年刊行の旧版[同じくプレイヤード叢書]も参照した。)
- Les Plaisirs et les jours in Jean Santeuil , Biblioth述ue da la Pl司ade, 1971.
- Jean Santeuil , Biblioth述ue da la Pl司ade, 1971.
- Essais et Articles in Contre Sainte-Beuve , Biblioth述ue da la Pl司ade, 1971.
なお、諸作品の邦訳に関しては、井上究一郎氏、他各氏の訳業を参考とさせていただいた。
2. その他の参考文献
Antoine COMPAGNON, Proust entre deux si縦les, Edition du Seuil, 1989.
Henri BONNET, ALPHONSE DARLU LE MAITRE DE PHILOSOPHIE DE MARCEL PROUST, Nizet, 1961.
Yann le PICHON, LE MUSEE RETROUVEE DE MARCEL PROUST, Edition Stock, 1990.
PROUST ET LES PEINTRES, Mus仔 de Chartres, 1991.
Etienne BRUNET, LE VOCABULAIRE DE PROUST, Slatkine, 1983.
Geoge D. PAINTER, Marcel Proust, a Biography, Chatto & Windus, London, Vol. I, 1959, Vol. II, 1965. (ジョージ・D・ペインター、岩崎力 訳、『マルセル・プルースト − 伝記』、筑摩書房、1978年。)
Edmond Wilson, Axelユs Castle : A Study in the Imaginative Literature of 1870-1930, 1947.(エドマンド・ウィルソン、大貫三郎 訳、『アクセルの城』、せりか書房、1970年。)
武藤剛史、『プルースト 瞬間と永遠』、洋泉社、1994年。)
平島正郎・菅野昭正・高階秀爾、『徹底討議 19世紀の文学・芸術』、青土社、1975年。
成沢広幸、「芸術家の登場−『ジャン・サントゥイユ』から『失われた時を求めて』へ」、『広島大学フランス文学研究』、6号、1987年。
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