みなさんこんにちは。今日は雨の中、多くの方にお集まりいただきまして、ありがとうございます。今回はHIV感染者としてAIDSについてどのように考えているかということを中心にお話をさせていただきたいと思います。これはあくまでも私個人の話であって、患者・感染者がすべてこうだというわけではありません。ただ、
私の話というのは、AIDSというのはどういうものなのかという事を考える一つのきっかけにはなると思います。
最初に感染がわかる前の話をしたいと思います。1989年に私は「動くゲイとレズビアンの会」=アカーにかかわるようになりました。そして初めてAIDSに関して勉強するようになりました。電話相談や繁華街でのキャンペーンなどの活動を通して、自分なりにAIDSというのはどういったものなのかということを知るようになりました。
そして1990年に第1回目の検査をしました。東京都のAIDSデーのイベントで抗体検査をすることになり、私たちの団体も関わっておりました。グループの一員として検査を受けました。正直言って怖かったです。AIDSの知識、どういうふうにしたら感染するのかはわかっています。過去の自分というのを振り返ってみたときに、明らかにAIDSに感染していてもおかしくないという状況にいる自分に気がつくわけです。検査結果を見るまでかなり不安で仕方ありませんでした。この1回目の検査の時には陰性でした。ずごくほっとしました。それから1年後に2回目の検査を受けました。去年も受けたことだし今後毎年受けてみようかなと軽い気持ちで受けました。12月17日から、アメリカのパートナーの元に行くという計画をたてておりました。そうすると検査結果は私がアメリカに行った後に出ます。当初は帰ってきてから検査結果をもらうという手続きもしていたんですね。ただ、アメリカに行く日が近づいてきて、一日でも早く陰性の結果を知って、そして安心したいと思いました。アメリカに行く前の日に保健所に電話をしました。すると保健所の医師に
「今日中に会って話をしたい」
と言われました。私は全く不安がなかったんで、そういうふうに言われてもほんとにこれっぽっちも疑わなかったんです。保健所の小さな部屋に通されました。真正面に座った医師が私の検査結果の用紙を見ながらこう言いました。
「あなたはHIVの精密検査をする必要があります。」
このときに頭の中が真っ白になる、いろいろな感染者がそのように言っているかと思うのですが、本当に真っ白になるんですね。最初に何が起こったのかという事が一瞬わからなくて、HIV抗体検査の精密検査が必要、特にここでは感染していると言われたわけではなかったんですけれど、陰性ではないということはこれはもう感染しているんだと私はそのとき思いました。頭の中が真っ白になって、もう何も考えられない状態ですね。その次に思ったのが、もう自分は死ぬんだということです。涙がこみ上げてきました。やはり「死」というものにマイナスのイメージしか持っていなかったのです。医師には涙を見せたくないという思いが、強く働いて、一生懸命涙が目から落ちそうになるのをこらえていました。その間、医師は私にカウンセリングとか、ボランティア団体を紹介しようとか、そういった様々なことを話そうとするんですけれども、私とってそのとき何が必要だったかと言ったら、早く一人になりたい、早く一人になってこれがどういうことなのかを考えたいという事だけでした。よく抗体検査の告知をするときに検査後のカウンセリングが大切だというようなことをいわれています。確かにこれは大切だと思うのですが、人によって落ち着いてからカウンセリングを受けた方がいい人もいるのかなって気がします。帰りに新宿の駅を歩いていたんですね。クリスマスの2週間前でした。ちょうどジングルベルが流れてくるんです。感染を知る前、ジングルベルを聞いているとなんかうきうきするんですよね。告知後はこの曲来年聞けるかなということを考えてしまいました。よく「AIDS=死ではない」ということをいいますよね。あるいは感染がわかったからといっても それは発症したということではないということがいわれてます。私も感染を知る前はそう思っていました。自分が感染しているという立場になりますと、感染者がどのように生きているか、本当に「AIDS=死ではない」のかということがわからず、将来への希望をすべて失いました。
私が一番初めにしたことは、私の信頼の置ける人に、HIVに感染しているということを告げたことです。これはその日のうちに行動に移しました。AIDSについてその人がどれくらい理解しているのか、考えているのかを私自身が知っていましたから、だからきっとその日のうちに言えたんではないのかなと思います。これがまず第一の出発点になりました。私が感染しているということを告げてそれをそのままに受け止めてくれました。
「今はどうしていいかわからないけれども、帰ってくるまでにはグループの中でどのように対応していくかを考えよう」
とある人はいいました。励まそうとするんですね。
「大丈夫だよ、大丈夫だよ。」
と私の肩を揺すりながら泣きながらいうわけです。思ったことを率直に言ってくれたということがすごくうれしかったです。またその日には、アメリカの恋人に電話をしました。
「もしサンフランシスコの空港で会って、別れたくなったらいってほしい。その時はすぐに帰るから。」
普通このようなことをいわれたら不思議に思うわけですよね。パートナーが
「今言ってほしい。今この場で言ってほしい。もしここで言ってくれないと寝られない」
と言うんです。一瞬考えたんですけど、私は結局言うという選択をしました。相手のことが好きでしたし、信頼していたという事です。それで駄目だったら仕方ないだろうというあきらめもあったかもしれません。検査結果を伝えると、一瞬の沈黙の後、こう言われました。
「絶対明日の飛行機に乗って、次の日空港で明るく笑って迎えてあげるから。」
これも私にとってとても有り難いうれしいことでした。
次の日アメリカで恋人と再会しました。アメリカでの1か月半という生活は本当にいい経験でした。感染者であるという事を伝えているにもかかわらず、ひとりの人間として接してくれる、ひとりの友達としてこれまでと同じように接してくれるわけですね。しかし、やはり死についてとか、いろんな不安というのはあったんですね。そこで、同じ感染者の方がピアカウンセリング=仲間のカウンセリングという事で私の話を聞いてくれるわけです。すごくすっきりするわけですね。こちらも泣きながらいいたいことをわーっと話すわけですけど、それで安心するんです。その中で私がこういうことを知りたいと何げなくいってるわけです。すると次に会うときにそういう情報を用意してくれてるわけです。例えば、感染者ってどういう生活をしているのか、どういうものを食べているのか。
アメリカでの生活は、考える時間がたくさんあったことがとても良かったと思います。私は死をすごく意識しているわけなんです。後どれくらい生きられるのかという事を聞いて回っていました。ある感染者がいいました。
「感染したからといっていつ死ぬか、それは誰にもわからない。1年後に発症し死ぬかもしれないし、あるいは一生発症しないかもしれない。そうやって死を考えるよりも、どうやって生きるかということを考えた方がいいんじゃないか」と。これは私にとってすごく大きな言葉でした。彼の言葉が死を考えて止まっていた時点からぽんと押してくれて、感染者としてどのように生きていけばいいのかという事を教えてくれる、あるいは考える材料を与えてくれるきっかけになりました。私は日本に帰ってきて、AIDSの活動をしようと決めました。本当はこの旅行というのは恋人とサンフランシスコで一緒に住めるか、それを実験するためのものでした。しかし結局、恋人と別れるということになりました。私にとってそれが一つの区切りになりました。
そうして日本に帰ってくるわけですけど、2か月間くらいまた精神状態が悪くなったんです。日本に帰ったらどこにも自分の存在する場所がないんです。自分の感染を知っている人はほんの数人しかいません。ましてや、AIDSについて理解をしている人たちがほとんどいない社会なんです。悪い方へ、悪い方へ考えてしまうわけです。AIDSのことを考えると、どうして自分は感染してしまったのか、自分が今後生きていく意味があるのかと否定的なことばっかり考えるようになるんです。そうするともう生きている価値がないんじゃないかというふうに思えて、涙がでてきました。そういった状態が2か月間続きました。どうして2か月間で終わったかというと、常に精神状態が悪いわけではないんです。やっぱり波があります。割と元気なときに、まず私が感染しているという事実をグループの仲間に話をしました。そうすると一人一人私が感染していると知っている仲間が増えていくわけです。自分はここでみんなに受け入れられたんだ、たとえ感染していてもみんなは同じように接してくれるんだということを体験できるわけです。ある程度精神的に安定して実家に帰りました。そのときに母親に言いました。私は母親に言うことがすごく不安だったんです。同性愛者という世間からなかなか受け入れられない存在であり、なおかつHIVの感染者で、それもまた世間から背別偏見の目で見られている存在になってしまった。そのとき母は、私の手を持って、
「一緒に病気と闘っていきましょう。私も一緒に闘うから。」
ということを言ってくれたわけです。これが決定的に私を安心させてくれた、AIDSの不安から救ってくれた一言でした。それが’92年の4月くらいです。
それからはAIDSの活動をやっていきました。’93年にベルリンで開催された第9回国際AIDS会議で感染者であることを公にしました。それまで自分は感染者でない人間なんだという顔をしながらAIDSについて話をしていたわけです。自分は感染者なのに感染者として発言ができない、意見が言えない、それがつらかったんですよね。これから自分はHIV感染者として意見が言えるんだという気持ちになりました。その年の8月にちょうど横浜会議を1年後に控えて、厚生省の記者クラブで記者会見を行いました。そのときにまた母親に相談すると
「もし記者会見をするんであれば、兄弟全てに言ってからにしてほしい」
と言われました。メディアを通して知るのと私から直接聞くのではやはり印象が違います。私は5人兄弟なんです。兄、兄、姉、私、双子の弟という兄弟なんですが、その4人に言わなければならないんですね。男の兄弟に言ったのはすごく疲れました。一人の兄には泣かれました。日曜日のランチタイムに二人でご飯食べてて、感染しているということを告げたら涙をぼろぼろ流すんです。それに対してどう対応していいのかということも私自身あんまり考えてなくて、自分は自分の気持ちを正直に言えばいいと思っていたんです。泣いてしまった人のことまで考えてなかったんです。どちらか一方は悲しくて泣いている、一方は悲しくない、そういう状態でご飯を食べるのはどんなに苦しいか、あんまり普通そういう状態はないですよね。10歳違う兄に泣かれて、こりゃ参りました。2番目の兄は
「おまえが勝手に感染したんだから他の人に迷惑かけるな」
と言いました。弟は
「これから自分はどうやって生きていけばいいのか」
と言いました。
「家族の中に感染者がいるということは今後自分は楽しいことがあっても笑えない」
と言うんですね。それに対しては
「そんなことはない、感染しているのは自分なんだから関係ないんだよ」
ということをいったんです。姉は母親と同じで割とさばさばしていて、
「何かあれば協力するから」
と言ってくれました。そういうことを経てその1年後に第10回国際AIDS会議を迎えました。そのときの経験は今でも大変役立っています。例えば行政とのつきあいはどのようにしたらいいのかとか、AIDSという問題を社会に対してどのようにつないでいけばいいのかとか、そういうことを経験させていただきました。
これまでの経験を通して学んだのは、まず、感染者も生きていく権利があるということなんです。感染しているからあっちの病院に行かなきゃならないとか、会社を辞めなければならないとかそういうことはないわけです。病院を選ぶのも、感染していない多くの方々が自分が行きたい病院を選ぶのとおなじように、本来は感染者や患者であっても選べるべきです。ところが、今の状況は、専門外来がないからうちでは診られませんといわれたりしています。本当にこういう状況というのはおかしいなと最近思っています。感染していても、感染していない人と同じように自己決定をする権利があるはずなんです。だから、感染者がどうしたいのかをまず聞いていただきたいと思います。私自身は、自己決定しています。病院も行きたいところを選んでいっています。
感染していない人たちには、AIDSについて話をしてほしいと思います。患者・感染者にとっても世間がAIDSについてはなしをしてくれた方がいいんです。というは、私が友人に感染していることを告げることができたのは、周りの人間が、AIDSについて、患者・感染者についてどういうふうに思っているかということをわかったからなんです。今の社会は感染している人たちをどのように思っているかということをメディアを通してしか伝わってこない状況ですよね。日常の生活の中で、感染者が同じ所にすんでいても、なかなか周りからは聞こえてこない訳なんですよ。職場の人たちはAIDSについてどのように考えているのか、家族はどうなのか、言葉が全然伝わってこないですよね。これだと周りに話をしたときにどのように受け止められてしまうかという恐怖があると思います。ですから、是非AIDSについてはなしをしてほしいと思います。それが患者感染者が周りの人にサポートを得やすい状況を作っていくと思います。そして性について話をしてほしいと思います。最初に私は90年の検査では陰性で、91年の検査では陽性だったと言いました。私は正確な知識も情報も持っていたんです。行動に移すことができなかった。考えてみますと、AIDSの活動をするときには頭の中がAIDSに切り替わっているんですが、それが一歩プライベートな生活に戻るとまた切り替わってAIDSについて何も考えていない自分がいるんですね。AIDSの問題は日常生活に深くかかわってきますんで、行動がとれるように考えなければならないと思います。それにはAIDSについて話をすることです。家族と、友人と、あるいは恋人と。AIDSを日常的に感じるようになると思います。情報とか知識は行動に移せて初めて役に立ちます。その橋渡しをするものは人々の感情なんですね。気持ちなんです。性的なパートナーとは、服を脱ぐ前にAIDSの話、あるいは性の話をしてください。よく、服を脱いだ後にコンドームをつけてほしいということをなかなかいいだせないとおっしゃる方がいます。お互いにAIDSについて、性について納得してから服を脱いだって遅くはないわけです。服を脱ぐ前に是非AIDSのはなしをしてください。性の話が入ると子供と話ができないとか、恥ずかしいとかいろいろあると思うんです。今どういう治療薬があるのかとか、患者・感染者の話だとか、自分たちの地域ではどういった病院で患者・感染者を受け入れているのか、いろんなトピックスをAIDSは持っています。自分たちが入りやすいテーマから話をしていってください。話をしないとそれより先には進めないわけです。どんな話題でもいいんです。もしAIDSの話ができなければ病気の話からしてください。できるとこからしてください。
最後に皆さん目をつぶってください。きっと皆さんはこれまでの思い出を思い出すことができるかと思います。いい思い出でも、悪い思い出もあるかと思います。人間というのは地位も名誉もお金も死ぬときには持っていけません。死ぬときに何が残るかと言ったら思い出です。今皆さんが思いだしている思い出が、どんな人でも持つ、あるいは持っていけるものです。ただ今の世の中、AIDSと闘う、あるいはHIVのウィルスを持っているだけで、死を迎える瞬間にいい思い出を残すことができず、振り返ってみたときにどうして自分はこんな人生を送ってしまったのだろうというそんな思い出しかもてない人も数多くいます。ウィルスというものを持っているか、いないか、たったそれだけのことで、死ぬときに持っていく思い出がこうも違う、それが今の世の中です。それを是非変えていきたいと思っています。いずれ、私も皆さんも人間はいずれ死ぬことになります。いくらお金を持っていても、いくら地位があっても、結局死ぬときに残るものは思い出だけです。でもその思い出というのは環境によって、状況によって変わっていきます。それを是非今日は理解していただきたいと思います。目を開けてください。これで私のはなしは終わりです。
せかんどかみんぐあうと代表 大石敏寛
せかんどかみんぐあうとはPHA(HIV感染者・エイズ患者)が中心になって活動している団体です。以下の講演録をお読みになってご意見、ご感想などを、是非お寄せください。今後の活動に役立てて参りたいと思います。
また、せかんどかみんぐあうとでは学校、医療現場、職場、地域グループでのエイズ教育に感染者の立場から話すスピーカーを派遣しております。
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